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吐き溜め①上野駅とゴッホ

上野駅はあまり好きじゃなかった。人混みの雰囲気。街並み。新宿のドライさとは対照的な人達。

ゴッホ展。東京幻想展。同時に開催されるということで、久方ぶりの上野への上陸。

ゴッホの作品は現代でも高い評価を受け、作品をひとつも見たことがないという人を探す方が難しいのではないだろうか。僕自身、小学生の時分にはゴッホという作家を認識していた。

もちろん、作品がもたらした社会的な影響や、その歴史なんかはある程度一般常識として認識はしている。しかし、一つ一つの作品の技巧がどうだとか、何を表現しているだとかそこまで造形が深いわけでもない。そんな、絵画の素人に毛が生えた程度の僕でも楽しめるのだから、やはり著名なアーティストというのは一角のものがあるのだろう。プロだけではなく、大衆にも認められるかどうか。これは後世に作品を残す一つの要因になっていくのだろう。

ただ、今回の展示で僕が一番、強く印象を与えられたのは、個人蒐集家へレーネ・クレラー・ミュラーだった。簡単に言って仕舞えば、ゴッホを投資先として見出した人物である。大した成果を上げていなかったゴッホの作品をその死後、まとめて収集し、商船会社という婚約者の地盤を使い世に広めて行った。現代で言うインフルエンサーである。

彼女が本当にゴッホの作品に魅了されていたことは間違いがない。しかし、僕が今回、ヘレーネの逸話を聞いて感じたことは、芸術家と言うのは投資に似ていると言うこと。有形の作品の場合、その価値はその死後、価値が跳ね上がるケースが高く。宮沢賢治やカフカを彷彿とさせた。

芸術とは何て議論を学生時代、美術大学志望の友人と電話で朝まで話したことがあった。当時、まだ電話料金は今ほど安く抑えられるものではなく、翌月の支払いに絶望したことを思い出す。

閑話休題。当時のまだ学生という身分の我々の芸術認識は、ある物を五感で感じ、それが琴線に触れる時芸術として成り立つというものであった。

大学時代、芸術とはという問いが我々の中で議論された。彼は美大入学を果たし、僕はというとそれなりに著名な大学の学生となっていた。

僕はその頃の芸術への認識も変わらず。Artとは人工物であるという語源的な切り口から、再度、高校時代の人の琴線に触れるかどうかという持論を展開した。しかし、美術畑へと進んだ彼の意見は、かつて夜通し語り明かしたものとは違う答えになっていた。

「商業的価値」を付与できるかどうか。

当時の僕は、この言葉を聞いても鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたことだろう。

さて、本格的に今回の吐き溜めの結論に導いていこうと思う。ゴッホの作品は素晴らしい。宮沢賢治の作品は素晴らしい。カフカの作品は。。。

では、なぜ彼らの作品は作者の死後に評価が改められたのか、作者の死亡によって商業的価値の付与に成功したからである。

芸術とは商業から切り離されたところで産み出される崇高なものという固定観念は、未だに根深く、どこか目を背けがちではあったが、大衆の評価を得て芸術へと成る。昇華する。

ミレーネはゴッホの作品を商業に組み込むことで、より多くの人間に自分の好きな画家を認めさせたかったのかもしれない。少なくとも、芸術家のパトロンと言われる人間はそうであってほしいと願うばかりである。

帰り道、上野駅に向かう途中公園から駅を見下ろすと、上野駅の様相はあの頃と変わって見えた。

あぁやっぱり上野という駅は好きになれない。僕にこんな現実を突きつけるのだから。それでもまた、来てやろうと思う。存外、30を超えても人の物の見方というのは変わるのだなと。そんな言葉を吐き溜める。



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