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コロナ禍でよかったこと

息子と過ごす時間がたくさん増えたこと。
息子と同じ希望を分かち合えたこと。

野球をはじめたのは小学5年の秋。近所のバッティングセンターで個別指導を受けてみた息子が地元のチームに入っても良いかなと言ってきた。2019年1月わずか1年くらいしか活動期間がないにもかかわらず、自分の意思でチームに飛び込んだ。それまでのことを考えると、心底ほっとしたし、嬉しかった。

息子は小学生になる前からサッカーを始めた。

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はじめて入ったチームはめちゃくちゃマンモススクールでコーチと触れ合うことはなかった。車で通ってたけど、ただの球遊びで終わった。

もっときちんとやりたい。地元のフットサルコートに通った。コーチに教わる喜びを知って楽しそうに通っていた。でもまだ全員での球蹴りだった。

小学一年のときに青豆ハウスに引っ越してきた。

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環境を変えたくなかったんだと思う。
それまでのフットサルコートのレッスンをやめ、地元のクラブチームに入ったのはもう10月のことだった。

デビュー戦はやったこともないゴールキーパー。物怖じしないし度胸はある。いきなりペナルティーエリアを飛び込えてクリアした。その後も果敢に前にでた。

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そのうち手で止めた。もちろんハンド。笑
ルールはうろ覚えで無我夢中。でもPKは止めた。めちゃくちゃチームに歓迎された一日。嬉しそうだった。

結果その後もずっとキーパー。一年でキーパーやりたい子はなかなかいなかったというのもきっとあったけど。

ただこの頃の半年遅れは致命的だった。基礎を教わった子と基礎どころかルールもわからずに飛び込んだ子。とても周りの子には及ばなかった。もちろんセンスも足りなかった。

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わけもわからず臨んだPK戦。ボロボロだった。

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次第に自信も、楽しむ気持ちも、失った。

それでもずっとゴールキーパーを続けた。11人目の選手だった。

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フィールドにキーパー以外で立たせてもらえることはなかなかなかった。チームが12人になって、ずっとベンチに1人ぽっちコーチの視線に入ることなく空気のように座っていた数ヶ月。

辛抱づよく努力しよう。練習に通い続けた。
サッカー以外のときは楽しいことたくさんした。

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そのうち持病の喘息が酷く肺炎の症状でしばらく入院した。

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もう嫌だと言った。
チームにいるのは嫌だと。

青豆ハウスで大好きな大人に囲まれて育った息子。大人のことを信じていた。

それでもどうやっても相手にしてくれないコーチに、どうしたらよいかはじめて失望した瞬間だったのかもしれない。

それでもせっかく続けてきたんだから。親のエゴで、同じサッカークラブの個人レッスンを受けることにした。

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個人レッスンのコーチは息子にとても優しく、いつも褒めて伸ばしてくれた。

「大雅にサッカー嫌いになってほしくないから」

息子もサッカーというよりコーチが好きで通っていた。次第にサッカーも楽しそうにやってくれるようになってほっとした。
その後サッカーを観ることは好きでいてくれたのはこのコーチのおかげかも。

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そんなコーチがチームを離れることになり、個人レッスンそのものがなくなった。
いよいよ、息子がサッカーをしなくなった。

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いろいろな楽しみを感じてもらおう。
夫婦で大好きなヤクルトスワローズの観戦に出かけた。
はじめのうちは親が行くから。仕方なく。
それでも生観戦は楽しかったみたい。

2017年7月26日。
ヤクルトが10点差を追いつき逆転した。
66年ぶりの快挙だ。
ホームランを打ったのはずっとベンチだった苦労人の大松選手。

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息子は希望を見たようで、野球が面白くなってきたと言った。

2018年から神宮球場に足を運ぶことがとても多くなった。

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この頃から球場でもテレビの前でも、勝っては嬉し泣き、負けては悔し泣きの連続だった。

あまり落ち込むのも、、、と思いつつ感情的になるのは素直な証だからと自分を肯定しながら息子を慰めていた。笑

サッカーでずっと控えだったからか。息子が好きな選手はスタメンではなくベンチにいた。
いつもチャンスに代打で応えてくれ、サヨナラ勝ちを決めてくれる荒木選手が今でも息子のNo. 1だ。

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はじめてのバッティンググローブは荒木選手が使っているものを探した。もちろんない。仕方なく人気選手の山田哲人選手のモデルに。

2018年9月5日。またしてもヤクルトが3-9から9回に追いつき延長11回に奇跡の大逆転した。
こちらもベンチを温めてきた苦労人、上田選手
まさかのサヨナラホームランだった。

この年、万年最下位に沈んでいたヤクルトスワローズは奇跡の2位につけ、悲願の日本シリーズ出場をかけ、クライマックスシリーズで巨人と対決した。
せっかくの生観戦も結果は屈辱的なノーヒットノーラン負け。力なく球場を後にし、気を紛らすため、翌日サッカー日本代表戦を観戦に行った。

そこで奇跡が起きた。

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ハーフタイム。振り返るとそこにいたのはまさかのヤクルト上田選手。息子は強豪ウルグアイに攻勢をかけるサッカー日本代表に背を向け走った。よりによってハーフタイムに日本代表ユニホームの上に羽織ったヤクルトのパーカーのおかげで記念撮影に応じてもらう。

もう完全に野球熱が爆発した。よりによってサッカー場で...!!

話は冒頭に戻る。
バッティングセンターで楽しい思い出しかない「個人レッスン」からはじめた息子が、あんなに嫌な思い出しかないチームでのプレーを望んだのだ。しかも残り実質1年。スタメンは1年生から5年野球をしてきた猛者揃い。半年後に入団したサッカーチームより遥かに厳しい状況だ。

「中学では野球部に入る。だから少しでも早く慣れておきたい」

なんという自立した未来思考。
本当に嬉しかった。

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まあ、案の定、そんなにうまくいかず。
12番目の選手から、10番目の選手には這い上がるのが精一杯。サッカーよりは野球に向いていたようだ。

「なんで人生を遠回りさせたの。自分は野球やってたくせに教えられもしないサッカーやらせて遠回りさせて」
この一年浴び続けた息子からの恨み節。世界的にみたらサッカーのほうが役に立つと思ったからさ。。
なんという他律のネガティブ思考。。
本当に悲しかった。笑

そのうち、代打でタイムリーを打ったことで、打撃が評価されていた。希望をくれた大松選手、荒木選手、上田選手が打たせてくれたんだろう。いつものスタメンが病欠で回ってきたチャンスでも見事にタイムリーを打ち、4チームでの地区大会だったけど、優勝に貢献することもできた。

でも最後まで控えは控え。なかなかチャンスもなく、たまのチャンスも結果を出せず。男2人でご飯を食べに行っては悔し泣きする息子をなだめる日々。

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それでも、どんなに辛くても「やめる」と言わなかった。偉いと思う。だからきっと野球の神様が微笑んでくれた。

最後の引退試合。息子は柵越ホームランとホームラン級のサヨナラタイムリーを二打席連続でかっ飛ばした。

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この日の結果で芽生えた自信は大きかった。

「中学に入ったらシニアリーグに進む。プロ野球選手になりたいから甲子園に行きたい。甲子園に行くためには中学から軟式野球部に入らずに硬式球のシニアリーグで慣れておきたい。自分は経験不足でまだまだ下手だから一番上手い選手が揃う強豪チームに入ってそこで努力して成長したい」

かみさんと顔を見合わせた。
彼の決意は固かった。

でもコロナが来た。

はじめのうちは家から出れず練習にも取り組めなかった。近くのバッティングセンターでのレッスンも自主的に通うのをやめさせた。代わりのオンラインレッスンを見つけて、画面のなかのコーチからの動画アドバイスをもとに、ふたりで練習に取り組む日々がはじまった。

なかなかうまくいかない。
あるとき息子のストレスが爆発した。

「せっかくここからだったのに。どうしてこんなに我慢しなきゃいけないの。やる気になっていた野球ができない。大好きなヤクルトの試合も観れない。もうどうしたらよいの。」

声を震わせ泣きじゃくる息子。
辛いよね。そうだよね。

ここから早寝早起きの日々がはじまった。
早朝の誰もいない公園に行き、思いっきりバットをふらせた。
怒られたら頭下げよう。

あるとき腕組みをして厳しい目つきでこちらを見てるおじさんが近寄ってきた。怒られるかなと思ったら、息子が打ったボールを拾い集めてくれた。

緊急事態宣言があけてチーム練習がはじまった。
はじめてのシート打撃。息子は柵越えを連発した。

万年控えだったのに。

昨日は息子の12歳最後の日。
13歳になる記念に、いつも画面越しだったコーチに直接指導してもらえる機会をつくってあげた。

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たくさん、たくさん、自信をもらえたみたい。
あんなに嬉しそうな顔、ひさしぶりにみた。

甲子園行こう。プロ行こう。

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三年の夏がシニアの山。
コロナがどうなろうと息子と一緒にこの二年夢に全力で打ち込もうと思う。

コロナ前はどこかに行っているアテにできない人だったお父さんのことを、今、息子がアテにしてくれているから。

13歳の誕生日おめでとう。
夢に向かって全力でチャレンジ続けよう。

全力の先には成長しかないってお父さん知ってるからさ。
付き合うよ。

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