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「天気の子」評 ─法律もセカイも糞くらえ!俺が嫌だと言っている

※ネタバレあり、既に見た人向けの記事です。

これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。

友人と「天気の子」を見てきた。
前作「君の名は」が爆発的ヒットを飛ばし、サブカルチャー層だけではなく一般層にもその名が広く知られることになった新海誠の新作は、果たして学校帰りの中高生やカップル、女性グループでいっぱいで、映画館のど真ん中に居座るアラサー男二人組である我々が異質であるかのようだった。
見てきた人たちの感想をネタバレに注意しつつ事前に少し読むと「セカイ系の集大成」、「ゼロ年代エロゲカルチャー」、「天気の子はファイトクラブ(?)」などなど否が応でも期待が高まっていた。

そうして俺はこの映画を見た。なあ、この結末を予想できた人間がいるか?

セカイ系の定義については諸説あるが、『「僕と君」の関係性が「世界」の危機や構造に直結する』ような作品群とするならば、これは完璧に「セカイ系」の物語で間違いなくその集大成であり、これでもかというほどの「全部盛り」だった。
主人公である帆高は「世界」と「君」のどちらを取るかという選択を迫られ、ヒロインである陽菜を選んだその結果雨は3年降り続き、東京の大半を水没させる。雨に沈んだ東京でまた二人は再会する。あまりにも退廃的で美しいエンディングだ。

新海誠の作品の一番の特徴と言えば、偏執的なまでの背景美術の作り込みとその光の描写だろう。今作でもそれは遺憾なく発揮されていて、雨の降り続く東京の都市の重く停滞した空気感はすごい。夜の街に光るネオンサインやLEDの人工的な明かりの不気味さといったらない。それと陽菜の祈りによって訪れる晴天の対比が絶妙で、鬱屈とした気分が冴え渡るような感覚を与えてくれる。
新海誠は「言の葉の庭」でも雨の新宿を中心に描写しているが、今作ほど重苦しくはなく、どちらかというと雨に光る都市にも美しさを感じさせていた(そもそもあれは新宿御苑という都市の中に作られた緑のサンクチュアリを抜け出す作品なのだから、戻るべき日常も美しくなくてはいけないのだ)。

「天気の子」で描かれる街は本当に汚い。徹底的に悪役として描かれる。夜の歌舞伎町、散乱するゴミ、ラブホテルの看板、路地裏。漫画喫茶の店員、役に立たないネットの住人、風俗のスカウト、警察官など、東京の街と大人たちは世知辛く残酷だ。
周囲に嫌気が差して家出してなお東京で消耗するそんな帆高を助けるのは、まだ「大人」になりきれていない人たちだ。陽菜は「年下のお姉ちゃん」だし、夏美は就活がうまくいかない。須賀は大人ではあるが社会から分断されていて、オカルト雑誌のライターという少年性をエンタテインメントとして割り切ることで接続を試みようとしている(なので、「父と娘」という社会と繋がったときに帆高を追い出すことになる)。
しかし、大人たちは悪役ではあるが、本当に「悪い」わけではない。彼らは正しく、みながみな生きていくための仕事をしていたり、立場上やるべきことをやらなくてはいけないだけである。

愛は祈りだ。両親をなくし、仕事をクビにされた陽菜が拠り所としたのは、帆高とともに祈りによって雲を開き、世界に愛を届けることであった。しかし、その行為によって社会を内面化した陽菜はついに世界そのものとなる。
人柱である天気の巫女を彼岸に呼ぶために世界は異常気象という形で選択を突きつけ、陽菜は世界(帆高や凪)のために姿を消す。
彼岸の世界は美しい。冴え渡る青空、泳ぎ回るサカナと龍。雲の上に広がる穏やかな草原。汚い此岸の景色との対比として美しく無垢な世界が描かれる。
陽菜がいなくなった街は晴れ渡り、街に活気が戻る。帆高と凪は警察に捕まり、世界へ取り込まれそうになる。
帆高にはどうなるかがわかっている。それでも穂高は世界を捨て、陽菜を選ぶ。世界が彼を見捨てた時に愛を与えてくれたのは彼女だったのだから。

そうして東京は沈む。水没した世界でふたりは愛し合うのだろう。
その行為は「正しい」か?否、正しくない。本当の「悪」は彼らなのだ。
だがこれは「正論」に立ち向かう物語である。最大多数の最大幸福を実践する、消費社会としての都市からこぼれ落ちた者たちが紡ぐ救済の歌だ。

本当に世界は変わったのだろうか?おそらく変わっていないだろう。降り続く雨は確かに世界の形を変えたけれど、社会の仕組みを変えることはできないだろう。都市は未だ狂っていて、依然悪役のままだ。
だが、それでもいいのだ。
セカイ系の集大成でありながら、新海誠は「その先」を描いた。
ふたりは美しい彼岸の世界そのものとなるのではなく、汚い此岸で生きることを選んだのだから。それがふたりのセカイなのだから。

この映画のタイトルは「天気の子 Weathering With You」である。
ここでのweatherの意味は当然、帆高と陽菜の「晴れを届ける」行為、そして「困難を乗り越える」こと、最後に東京を「風化させる」ことだ。

ふたりで壊したセカイでふたりは生きていくのだ。

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