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仕事の愉しみver.2

某中古車販売業者の不正を受け、仕事の意味について書きたくなったので、前に書いたものをたたき台にしながら、ちょっと書いてみたいと思う。

企業の不祥事はこれまでも多く起こっている。また、政治や行政についても不祥事は多く起こっている。

今回の某中古車販売業者の不正についてはSNSをはじめとする様々なところで燃えている感じがある。
誰か悪者を探してそれを叩くのは簡単かもしれないが、なぜこのようなことが起きてしまうのかをもう少し考えるべきと思う。

取りも直さず、今回の不正は、法に触れるようなやり方で「お金を多く得よう」としたのが動機だと考える。
不祥事の動機の多くはお金が関係していると思う。
お金は人間が生活していく糧であるし、誰だってもっとお金があればいいなぁと思うものである。

だが、お金とは別次元の価値が仕事にはあるはずだと思う。
それは上の『仕事の愉しみ』に書いた、「人のために役立っている実感」である。

例えば、自分の利益のためだけに金融商品のトレードで儲けるとする。これだとお金は手に入るだろうが、「人のために役立っている実感」は手に入らない。
簡単に言えばそういうことである。
仕事をしたことのある人ならわかるだろうが、仕事をしていると頻繁にではないかもしれないが、「ああ、役に立ってよかった!」という瞬間がある。もちろん、生活するための糧=お金を求めて仕事をしているという側面もあるが、一方で、「人のために役立っている実感」が得られるからという側面もあるだろう。
かく言う私もそんなに頻繁に「人のために役立っている実感」を感じることがあるわけではない。けれど、仕事をするということが、お金のためだけではなく、人の役に立つためにするという側面もあるということに、もっと自覚的になったほうがいいのではないか、と思う。

今回の不正はなかなか分かりにくい側面もあったかもしれない。だが、それでも顧客の保険等級が下がり、以後払う保険料が増えたり…、ということもあったのではないかと想像する。
不正が見えにくい場合、何がそれをとどまらせる防波堤になるだろうか。それは、職業倫理ではないだろうか。
職業倫理と言えば堅苦しいイメージかもしれないが、時代が変われど、仕事にはそれぞれ守るべき倫理観や矜持があるはずだ。職業倫理を守ってこそ顧客の利益になると私は思う。

なぜ職業倫理が軽んぜられるのか。それは真面目に仕事をやっても十分な対価を得られない、そんな構造的な問題があるからではないだろうか。
そもそも職業倫理は得られる対価で決まるものではなく、絶対的に固持すべきものだ。一方、様々な現場で、真面目に仕事をした人に対する十分な対価が支払われなければ、ひいては職業的な倫理観も弱まる側面は否定できないと思う。

このような不祥事を受け、当の企業はもちろんであるが、国や行政も、真面目に働いている人が報われるよう、是正していってほしいと切に願う。

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