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牧歌的なのは悪いことなのか?

土日は基本的にnoteを書かないので、今日は2本目を書こうと思う。

僕は80年代、90年代に幼年・少年時代を過ごしたわけだが、今から思えば牧歌的な時代だったように思う。
僕より年上の人はさらに昔のことを牧歌的と言うかもしれない。
それでも、僕が少年時代だったころも今から思えば牧歌的だった。

僕は小学校3年生の終わりごろから有名進学塾に通い、中学高校は私立の一貫校で過ごした。
生まれも育ちも大阪だから、それはそんなに珍しいことではなかったのかもしれない。けれど、実際に私立に進んだのは小学校のクラスでは僕だけだったように思う。

小学校のクラスメイトはほとんどが持ち家一戸建てに住んでおり、たまに集合住宅の友達の家に遊びに行くと新鮮に感じた。
持ち家一戸建てと言えども、長屋のようなところに住んでいる子も多かったし、マンションより長屋の方がうちの地域では一般的だったのかもしれない。なので、○○号室のような住所は子供のころはあまり見慣れなかった。

親は僕にいろいろと習い事をさせてくれた。
習字、ピアノ、ボーイスカウト、ソフトボール、そろばん、英会話、水泳…etc、今思い出せるだけでもこれだけ出てくる。塾の他にだ。

当時から塾や習い事で「忙しい子ども」がニュースでクローズアップされてはいたが、僕自身はどれも楽しんでやっていた。興味がなくなったものは辞めたし、親も自由にさせてくれた。親に後から聞いたら子供のころはいろんな体験をさせてあげたかった、とのこと。ありがたい限りである。

この話のどこが牧歌的なんだ?と思うかもしれない。
うまく表現できないが、僕自身は誰かと競争しているとか、塾や習い事を強制されているという感覚がほとんどなかった。
親も何が何でもやらせるということはなく、「あ、やってみる?」くらいの感覚で塾や習い事に息子を行かせていたということがあると思う。

周りの子たちも塾や習い事に行っている子はそこそこいた。
女の子はピアノかバレエに行っている子が多かった気がする。
男の子は塾や習字、そろばん、少林寺拳法が多かったような気がするが、塾や習い事に追われて殺伐とした感じでもなかったように思う。一部そんな子もいたことはいたが。
僕自身、関西ではかなり名の通った進学塾に通っていたわけだが、僕のなかではそれも遊びの一つだった。
他の小学校から来た子と塾では同じクラスになるわけだから、いろんな刺激があった。こんな感じのヤツはうちの小学校にはいない、みたいな感じだ。
なので、勉強はほどほどに、ほとんど遊びに行っているようなものだった。

なんだかプチリッチ自慢をしている感じになってしまったが、僕だけがこんな感じなわけでもなかった。お金持ちの家庭なら僕の家以上にお金持ちの子はたくさんいた。

要するに、大人が今より余裕があったのである。
バブルの残り香がまだあったころだったからかもしれない。
厳しい大人ももちろんいた。というか、今だったら問題とされてしまうくらい厳しい大人もいたように思う。けれど、それは怒らないといけないから怒ったりするわけであって、他人をいじめてやろうみたいな矮小な理由から厳しくするような人はあんまりいなかったと思う。
反対に、許すことができる大人がたくさんいた。
子どもが誤りを犯したとき、教え諭しはするが、彼らのこれからに期待して、再起不能にまでボコボコにすることはなかった。
この「大人の許し」というものに、僕たちはだいぶん救われたのではないだろうか。
例えば、何かルールに反したことをしたとする。そこですぐに罰則を適用するのではなく、なんでこのルールがあるのかを子どもに説き、これからはルールを守るように諭す。そんな運用が多かったように思う。
今から思えば、これはとても効果的かつ教育的なことだったと思う。

以上のようなことを「牧歌的」と表現したかったのである。
子どもは一人の人間であり、人格がある。それは最大限尊重されなければならない。
一方で、幼いがために大人に比べると未熟な部分がたくさんある。
そんな子どもの未熟さに対して、大人は成熟するように導く必要がある。
ときに、大人が子どもに教えられることもあるけれど。
人を未熟から成熟に向かわせるのは、罰ではなく許しではないだろうか。

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