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『グリーン・ナイト』と『あのこと』

1.『グリーン・ナイト』と「〇〇らしさ」の空虚さ

(色彩や装飾など、どれをとっても美しい。公式HPより)

 アーサー王伝説でもお馴染みの円卓の騎士の一人であるガウェイン卿を主人公とした『ガウェイン卿と緑の騎士』が原作の中世ファンタジー。映像は文句なしに美しく、どの部分で停止しても絵になりそうなシーンの連続である。王冠や衣装などといった小物の類も見ていて楽しい。
 内容としては、原作のプロットをたどりつつも、ガウェイン卿の人物造形のほとんどが原作の逆をいっており、娼館や酒屋に入り浸り朝帰りをする彼の姿は、おおよそ我々が思い描く騎士の姿とはかけ離れている。というより、そもそも本作のガウェイン卿は円卓の騎士の一人としてではなく(アーサー)王のただの甥・ガウェインとして登場しており、新年のパーティーでの姿は、自分より立派な親族や先輩が集まる場に呼ばれ、肩身の狭い思いをしているモラトリアム中の学生然といった様相である。
 そんな「何者でもない」ガウェインは、(恋人を除いた)周囲から「騎士らしくなること」を望まれている。母であり魔女であるモーガンは自堕落な彼を正しい道に導くべく彼に試練を与えようとするし、叔父であるアーサー王や王妃もまた、彼に「語るべき物語」を持つように言う。その結果、まんまと緑の騎士の首を落としてしまったガウェインは、その日を契機に所謂「勇敢な騎士」という鎧を着る(というより着させられる)破目になってしまう。
 そうして、緑の騎士との約束を果たすべく旅に出る(というより出ざるを得ない)ガウェインは様々な困難に立ち会うのだが、その度に彼は大凡「騎士らしい」とは言えないような態度を取ることとなる。この彼の情けない様子が、騎士らしさ(という当時の男らしさ)からの逃避のようにも見えて、理想的な男性像を求められる生きづらさを感じさせる。
 また、緑の騎士に首を落とされる直前に、彼は生きて帰れた場合のヴィジョンを見るのだが、これが控えめにいっても魅力的だとは言い難いものであり、他者や社会から押し付けられた「〇〇らしさ」を演じることの空虚さ、滑稽さが伝わってくる作品であった。

2.『あのこと』は過去の物語ではない

(アンナの視点との同一化。公式HPより)

 中絶が法律で禁止されていた1960年代のフランスを舞台に、労働者階級に生まれながらも、持ち前の知性と努力で大学に進学した主人公のアンヌ。もう少しで学士にも手が届くというタイミングで妊娠が発覚した彼女が、この問題を如何に解決するか、というのか大まかな本作の内容である。
 兎にも角にも、見ているだけで息がとまるかと思うほどの痛みを感じる映画ははじめてかもしれない。彼女の後ろを追いかけるような映像によって、見ている側も彼女の孤独や焦燥を追体験していくことになるのだが、それゆえに、彼女を取り巻く男性たちに腹が立って仕方がないし、女性の意思決定権の無さに愕然とさせられる。(もちろん、できた子どものことを誰も考えないのはどうなんだろうと思ったりもするのだけれど…)
 そうして、何よりも私が感じたのは、作品の舞台である1960年代のフランスと同じような状況が、2022年の現在でも起きていることに対する恐ろしさだ。
 2022年の6月、米国の最高裁によって1973年のロー対ウェイド判決が覆された結果、約50年間、全米で連邦法の下に認められていた人工妊娠中絶の権利が保障されなくなったことは記憶に新しい。
 また日本においても、中絶は可能だが、そのためには相手男性の承諾が必要であったり、海外では用いられている飲み薬での中絶方法が選択できなかったりといった問題が現存している。(これに関しては12月8日の「荻上チキsession」をぜひ聴いていただきたい。リンク先はSpotify。)
 アンナをはじめとした1960年代の女性が抱える問題は、2022年を生きる私たちの問題でもある。彼女たちと同じ痛みや孤独を抱える女性が、同時代に生きている、もしくは生まれるのだということから、決して目を背けてはならないのだ。

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