彼女の好きなビール

「もう疲れた、別れよう」
彼女は僕に別れを告げた。突然のことで僕は目を白黒させるばかりだ。そんな僕をみて彼女は溜息を吐く。
「驚いてるみたいだけど、驚いてることに私が驚いてる」
それから彼女は滔々と決断に至った理由を述べた。つまるところ、僕が彼女に連絡しなかったことが問題らしい。彼女いない歴=年齢の僕に舞い降りた春は半年にして終わりを迎えた。

「何が悪かったのかなー」
僕は目の前の男に向けて呟く。問いかけているのか独り言ちているのか微妙な声量を目の前の彼は拾ってくれた。彼女に振られたことだけを告げるや否や机に突っ伏した僕を慰めてくれる。
「元気出せよ、女なんて気まぐれだからな」
そんな彼は既婚者だ。2児の父である。僕は彼をじっとりとした目で睨む。
「順調、だと思ってたけど何が悪かったんだ?」
彼は僕に向けて問いかける。
「知らないよ、僕も順調だと思ってた」
彼女と会うたび、彼女はいつでもにこやかだった。付き合う当初と変わらず向けてくれる笑顔にいつだって癒されていた。
「苦手な連絡だって、彼女からメッセージが届けば深夜に返信していたし、誘われればデートにだって出かけてた」
僕の言葉に彼は眉をひそめた。そして納得したように憐みの視線を向けてくる。僕は少しだけ首をかしげて、彼の言葉を促した。
「それは、愛想尽かされるな」
物知り顔で頷く彼に僕は目を白黒させた。彼女の前でも、同じように間抜けだったに違いない。まだ理解の及ばない僕に彼は溜息を吐いた。
「お前から連絡したことある?」
「そりゃ、僕だって、」
彼に反論しようとして、ハタと気が付いた僕はメッセージアプリをさかのぼる。ない。僕からメッセージを発信したことは一度もなかった。いつも彼女からメッセージが届き、彼女でメッセージが終わる。彼は僕のスマホを覗き込んだ。
「うわ、しかもお前…」
そこまで言った彼は言葉を飲み込んだ。ドン引きされた雰囲気を感じ取った僕は、彼を問い詰める。何が悪かったのか、後学のために教えてほしいと頼み込むと彼は口を開いた。
「誘ってくれてる相手に、その日は無理って連絡するのは構わないと思うけど、普通、代わりの日連絡しない?」
僕はもう一度メッセージに目を通す。彼女からの今週空いていますか、という誘いに会社の同僚の飲みに行くと返している。そして彼女は、そうですか、楽しんできてくださいと返信している。
「しかも、次誘ってくれてるのも彼女じゃん」
これはない、と彼はジョッキの中身を苦そうに飲み干した。
「正直、避けられてるようにしか感じない。お前は本当に予定があるんだろうけど、半年こんな調子だったとしたら彼女が可哀そうだわ」
彼の表情が悲痛に歪む。俺だったら心が折れると言いながら、健気な彼女だったんだなとしみじみとしている。僕は顔色を失う。
「どうすればいい?」
僕の問いかけに彼は
「別れたんだろ? どうしようもない」
と、取り付く島もなかった。
「というか、そもそものコミュニケーションの問題だろ」
彼は、そう言って仕事で例え出した。
「双方MTGの意思があれば、こちらが提示した日程でダメなら別の日が空いていないか聞くか、こちらの空いている日程を提示するだろ? 何でお前仕事できるのにこんなに簡単な日程調整すら出来ないんだよ」
本当に呆れる、と言いながら彼はもう一度深いため息を吐いた。

「仕方ないじゃないか」
僕は初めてできた彼女でどうすればよいのか分からなかったのだ。どんな頻度でどこへ出掛けるべきか。そもそも僕も、おそらく彼女も外出が好きなタイプではないし、出かけた先の彼女も無理やり行き先を決めているような感じで楽しそうでもなかった。
「お前が怖かっただけだろ?」
彼は全てを見透かしたように言い放った。
「彼女も怖かったと思うぜ。誘うたびに3回に2回は断られて。しかも代替日を提案されるわけでもなし。さらにはどこを提案しても微妙な反応で。なかなか手は出してくれないし」
見透かしたよう、などではない。彼は全てを見通している。僕は彼の言葉に沈黙するしかなかった。
「付き合うときも彼女からだったんだろ? 向こうは緊張してたんじゃないのか?」
本当に可哀そうに、と彼は彼女に同情している。僕は頭を抱えた。

 正直、少しだけ胡坐をかいていたのだと思う。彼女が告白してきたのだから、デートに誘うのも彼女であるべきで、好かれているのだから多少、受け身になっても大丈夫だろうと高を括っていた。
 だけど冷静に考えてみれば、彼の言う通りだ。良好な関係を築くためのコミュニケーションを僕は怠っていた。気が付いたところで時すでに遅し。彼女は関西に帰るそうだ。
 僕は飲めないビールを仰ぐ。ビールは人生で一番、苦かった。

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