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諦観と達観

達観すればするほど人生うまく回ると思っていたけど、実際達観なんて出来なくて、出来てるフリをみんなしてるだけなんだなと思う。単にわたしの感想ではあるけれど。諦観すればするほど人生はうまく回るし、というか、諦観すればするほど人生の色が風景の色が見える景色が味気なく薄くなっていって、うまく回るように、傍から見たら回ってるように見えるだけで、心の中に ”諦め” がずっとあるだけで、虚しいんだなって。

苦しい、しんどい、いっぱい抱える気持ちはあれど、抱えすぎて何もわかんなくなってしまう程長い間抱え込んで、手放せなくなってしまった。ネガティブな感情を基に生きるのは向いてないんだなと気づいた時にはもう遅くて。ポジティブな気持ちにすり替えようともうまくいかない。しんどいことの原因が分かっているのにその原因を取り除くことが出来ない、出来ないたくさんの原因が楔のように根付いて何重も何重も鎖のように糸引いて絡まってどうすることも出来ない、身動きも取れない。そう決め込んでいるだけであろうともその勇気がどうしてもわたしには無い。いつまで経ってもヒロイン症候群でピーターパンシンドロームで嫌になってしまう。

どうしようも出来ない中、いつか救いが来るはずだなんて、来ないのに。いっそわたしがアンゴルモアの照準であればいいのに、と思うね。

自分のせいでこうなってしまっているのにも関わらず、勝手に落ちてウケるね。いろんなことが重複して脳がショートして何も考えられくなる。記憶力だけは人より良いというか特殊な覚え方しか出来ないから優劣とかいう問題じゃ無いけど、人が記憶しているものよりも多く記憶していることが多いけどそれ以外のわたしの脳の機能が愚図すぎてだめだ。

物を書くしか能が無いから、物を書くのも上には上がいるから自信なんてないけれど、人から褒められるのは文章だったから。なりたい者も夢もたくさんあるけど、どれかが叶えば良いと願い信じながら日々を生きていくしかなくて。途方もない未来は真っ暗で後ろを向きたくなって後退りしたくなって、歩みを進めたくない。社会が背中を押すから目の前の落とし穴に気づくこともなく落ちていくことしか出来ない。落ちたとて社会はわたしに手を伸ばしてくれないから、底でずっと泣き喚くしか出来ない。真っ暗だからすぐ傍にあるかもしれない登る階段にも気付けない。気付いても社会の目を気にして気付かないフリをするんだろうな。登って来れない人間は愚図だとレッテルを貼られるから。

登ってやるって、思うことは簡単で、それを実行に移すのは骨が折れるほど難しい。ここを実行に移せるか移せないかで決まるんだって分かってても勇気がない。言う勇気も、行動する勇気も、それをみんなの前で晒す勇気も。


好きな人が努力をしていて、学びを得ていて、自分は何も出来ていなくて。焦燥感に駆られて筆をとっても、ちぐはぐな文しか書けない。自分が書き得て掴み取ることが出来る文章は知識の中で得た語彙力に縋るしかない。語彙を得るための読書に割く時間は無い。無いと言うよりは、割けない。 don'tじゃなくてcan'tである。それが意図的なのか、で、ないのかは置いといて。この文章が意図することをわたし以外が読み解けるのか?読み解けた人がいるとするならば、精神科医にでもなったほうがいい。ぐずぐずの脳で書いた創った文章はあちらこちらに飛び跳ねて、スーパーボールみたいに捕まえることなんてできない、持ち主のわたしですら、というかわたしの運動神経が悪いから捕まえられないのかも。特別になりたい。ずっと。特別になれない、慣れない。ずっと。

”むかつく” というネガティブな感情を根本に燃やしながら生きて、ポジティブな感情にすり替えることも叶わない。ネガティブな感情を燃料に生きることは1人でも出来るけどポジティブな感情を昇華しながら生きることは誰か他人がいないと出来ないんだって誰かが言ってた気がする。他人を心の中に入れることが得意ではないから、どうやってこのポジティブな感情を他人に認めてもらうことが出来ようか。みんなの役に立ちたい、だとか困ってる人を助けたい、だとかそう思っていることも真実で。ネガティブだけでわたしが創られてるとは考えたく無いけど、困っている人を助けた時、神か何かを布教されたりなんてすると人生に悪態もつきたくなる。

だんだんと思考の波に溺れてきたから、文が稚拙になっていく。発信したいと思ったことがなんだったのかすらもう覚えていない。昔からかわいい物に包まれていたかった。現代において、叶うことがない夢のまた夢だ。天蓋付きのベッドでシンデレラ城みたいなお家に住んで、家政婦は10人以上いて、それでいて待っていたら王子様が迎えにきてくれる様な。白雪姫の物語はもう70年以上前で、この時の社会においての女性の地位は70年経って大きく変化した。今は、女性が最後の希望となって守り、戦う時代だ。自分が強いと思っていた武器も盾もハリボテで、厚紙で出来たようなへなちょこのそれはわたしの自信を失わせる。女の武器がうんたらかんたらって友達にこぼす時のわたしは友達からどう映っていたか、考えたら怖いな。

今調べてたら、諦観も達観もわたしが考えていた意味とは少し違っていたりして、”気の置けない” に近しいものを感じる。纏まりがつかないな。

いつか、わたしが誰かの特別になれたなら、その誰かを怖がらずに受け入れていると良い。

誰に向かっての文なのかすら分からないままネットの海に流すこの文章を見てほしくもあるけれど、見て欲しくない気持ちもそこかしこにあって。それでもここまで筆がのったのは久しぶりで、というか脳の中をそのまま書き連ねていると毎度ここまでの文章量になるんだけれど。いつもは思考の波に溺れた時に止めるから。堪えて書き連ねたのは久しぶりだった。頭が痛む、うわすごい厨二病みたいだな。

人を包み込める人間になりたい。

頑張ろうな、わたし。手帳によく書く、頑張れると良い。


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