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梅雨が生んだ五月病

個人的な見解で申し訳ないのですが、noteはTwitterの延長だと考えています。140文字に収まるわけない自分の頭の中を言語化するシステムとして、noteを運用しています。それなのにも関わらず、最近わたしはnoteだからって堅苦しい暗い文章ばかり書いていて。嫌になってさっきまでの暗い下書きを全て削除しました。

寝なくともみんなに平等に朝は来る。そんなことを誰かが言っていた気がしますね。言ってなかった気もします。わたしにもちゃんと朝が来ました。寝ずに朝を迎える度に夜通し泣いていた頃のわたしを思い出します。悲劇のヒロインチックな話ではなく、ただ単純に思い出すのみです。そんな頃もあったなあ、と。泣く理由と恋に落ちる理由は無い方がかっこいいと思うんです。当時は泣く意味を家族に求められて、答えられない自分にまた涙を流していたのですが。泣いている自分を俯瞰的に見つめてそこに感情を宛てがう作業を中学生や高校生が出来るんだったら、何かの賞を享受すべきだし、取り上げられるべきだとも思います。それぐらい難しいことです。

この世の中には覆らないこともたくさんあって、夢は大体叶いません。現実をちゃんと見ているつもりの大人でも、夢を見ていたんだな…と悲しくなる瞬間がたくさんあります。過去を後悔することなんていくらでもあります。でも仕方がないから、生きづらくとも生きなくてはならないから。生きています、不格好でも。中学生や高校生が何かの手違いでこの記事に辿り着いて、夢を叶えるために一歩でも踏み出せると良いなと思いつつ、羨ましさを覚えます。わたしはだめな大人なので。

結局は暗い話を生み出してしまっていて、人間の思考の癖は変わらないななんて。

涙は血液が濾過されたものだと何かの文献で見たことがあります。記憶なんてあやふやなので、この知識が正しいものかは分かりませんが。涙がもしも血液のように赤くあったのであれば、わたしはこんなにも涙を流すことが上手くなっていなかっただろうなと思います。お風呂でセンチメンタルに浸り、化粧水と共に涙を皮膚に沁み込ませたことも幾度とあります。
暗闇の底に思考が落ちていく時、その時にしか巡らない思考回路があるのです。浅い凹みを嘆いている間には出てこない感情が涙と一緒にぼろぼろと溢れ落ちていくように、劣等感や欲望が流れ落ちます。
底に落ちた時に良いものが生み出せると表現者はよく言いますが、自分もその一人だといいなと薄才ながら願う日々ですね。

話が四方八方に跳ねて飛んでいくところは昔から変わらずですが、暗い話をよくするのも昔から変わらずです。直したい点の一つですね。もう少し歳をとって精神年齢が大人になれば、直るのでしょうか。ずっと子供のままでいたい気持ちも大切にしていたいなと考えあぐねたりもしますが、強い心と泣いても痛くない心が手に入るのであれば、大人になるのもやぶさかではないな、なんて。少し高望みしすぎでしょうか。それならば大人になりたくない、なんてのたまうつもりはさらさらないので、さっさと大人にしてほしいですね。

大人になりたい、とも言うつもりないので、さっさと大人にしてほしい。他人任せを嫌う人間が山ほどいる環境下で育ちましたが、こればっかりは他人任せにしたい部分です。昼からなんて文章を作り出しているのか、「創る」という単語を使うことさえ憚られるような文章を生み出して、ネットの海に投げて、どんなに頭のおかしい人間なのか。自分でも計り知れなくてわくわくしてきました。やっぱりこの愛しい感情と心を大切に日々過ごしていきたいな、


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