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不登校は何を意味するのか。

私は中学生の時、不登校であった。
中学1年生の11月から中学校を卒業するまでの間である。

3年生の終わりに、放課後の誰もいない教室でもらった通知表には1という数字が直線を成すかのように一列に並んでいたのである。

思い返しても、不登校になった要因を言い表すことができない。人間関係こそうまくいっていたとは言い難く、それはストレッサーとして私を苦しめていたのは否定できない。
しかし、それだけなのだろうか。

現在、不登校が個人の問題から社会の病理として目を向けられている。

私自身の問題なのか。そうではないのか。
そんなことが分かったところで、大人になった私には何も変化は起き得ないのである。

ひねくれ者

さて、私はこうして不登校経験をインターネット上でペラペラと語っているわけだが、それを美化することには激しく否定的である。

すなわち、今なお不登校の渦中において悩んでいる子どもに対して、
「私も経験者だけど、不登校だって決して悪いことだけではない」
とか
「不登校だからできることがある」
とか
「自分で学校に行かないことを選択できるなんて立派だよ」
などと、その場しのぎで思ってもいないことを言うことはできない。

仮に極僅かながら、そのようなことを実感していたとしても、それを差し引いても有り余るだけの苦しみをなかったことにはできないのである。

どこまでいっても不登校はマイノリティーであり、それはマジョリティーにはなり得ない。多様性を標榜する学校改革が進められても、深層までを変えることはそう容易なことではない。

皮肉にも、私は現在大学院に在籍し、研究テーマに不登校問題を掲げている。もちろん、それは自らの意思決定によるものであるにすぎない。

こうして大学院生として、研究者の卵の出来損ないとして研究活動をしている中で、私自身が如何に過去の不登校経験に囚われているのかを思い知らされるばかりである。

そんなに過去に囚われるよりも、よっぽど前を向いて生きていく方が立派ではないか。

不登校という経験は自身を究極的にマイノリティーとしての自覚を植え付けるものであると私は考える。

それは、個人の能力や性質を軽々と飛び越えていき、貼られたレッテルだけがカタチとして残り続けるのである。

そう、現代において、不登校という言葉が一体何を表しているのだろうか。

しかし、教育を見放した私は教育に縋り付いて今も生きているのである。滑稽で、皮肉な惨状とでも言うべきだろうか。


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