雑想断想‐雨の日に

どうやって生きたらいいのかわからないけれど、雨の日に傘をさして行き交うひとたちをカフェの2階から、単にぼーっと眺めたいと思った。

そして、ゆったりとした洋楽がイヤホンから流れていて、わたしはなんだか涙が出そうになった。

はじめの部分はどんよりとした外の様子を見て事実おもったことであり、ふたつめの部分はそのときのわたしの事実である。
こうした事実のことばから始めて、徒然になにかを話そうとおもう。

どうしてわたしは、傘をさして行き交う人たちを単にぼーっと眺めたいのだろう。
おもえば、ぼーっとする、ということをしばらくやってこなかった。
起きている間は、なにかをやらないといけないという思いに駆られ、また実際になにかをやることに追われている。眠りにつこうと言うときでさえ、なにかを考えなくては眠れなくなってしまったのはいつからだろう。なにかを考え、次第に頭が疲れて混乱してくる、その感覚がはじまるともうすぐ眠るのだとわかる。起きたときには、時計が示す時間からなにをしなくてはならないのか考える。

つぎつぎに、『なにもしない』ということは難しくなった。
休日や休憩時間だって、それは他人がすることを決めていないという以上の意味はなくて、何かしらの予定が入るものだし。
電車で移動しているときだって、なにか、アプリを開いては閉じてみたり、本をパラパラと繰っている。
だれかと目的なく過ごしているときだって、なにかを話したりしてしまう。

ぼーっとする時間がほしい。
いま必要なのは魂の休息だ。

だからゆとりの時間を持とう、そういう時間を大切にしよう、というつもりはない。それは陳腐で言い古されたことだとおもう。
なにか意味のあることで締めなくてはならないという意識があって、そうした無難な結論をつけてしまいそうになる。

いつからだろう、なにか意味のあることしか言ってはいけなくなったのは。
子供の頃は、もっと素朴に思ったことをなんでも、意味がなくとも断片的にでも口に出せていたとおもうのに。

そうしてまた、『おとなが失ったこどもの心』のような、意味ありげな結論を置こうとしてしまう。
そしてまた、『意味ありげな無難な結論を置こうとすること』への嫌悪は、この部分にも自己言及的に及ぶ。
そうして無限後退して、わたしはもはやなにも誠実には語れない。
だから、この記事に結論のようなものはない。

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