書くこと、歌うこと、描くこと。

いまわたしのパソコンのなかではビル・エヴァンスが音を奏でているし、部屋に積まれた書籍にはそれぞれの著者が紡ぎ出した言葉の織物が丁寧に畳み込まれている。
このように時を超え、その表現者自身の肉体が亡びても遺り続けるものは極めて稀な例であろうが、しかしその直ちに解る事実は同時に、そのような遺された表現の外側には”遺されない表現”が無限に広がり存在していることもまた、わたしたちは無意識的であれ知っているということを意味していると言える。

自身の周りを顧みても、同人誌を発行したり、ブログを書いたり、曲をYouTubeにアップロードしたり、あるいは単に現代きわめて自然なこととなっているようにSNSを更新したり、あらゆるひとがあらゆる手段をもって書き、ときには描いたり歌ったりしている。つまりそれは、あらゆるひとがあらゆる手段をもって自己を表現している、ということだ。
こうした自己の表現にはどういった意味があるのだろうか。
いまわたしたちが自己を表現することは、その手段へのアクセスの容易さ、その手段の多様化によって大変気楽なものとなっている。他方、その裏返しとして日々生産される表現の量も大変なもので、ふつう人が行った表現はそれほど多くのひとに触れられることがない。ましてや、限られたユーザーを対象とするようなSNS投稿や、あるいはそもそも誰かに知られているわけではないブログページでは、いいねやコメントといったなにかしらの反応が付くとむしろ驚いてしまうこともある。

だが、私は思うのだけれど、そうした表現であっても我々は誰かしら、それは抽象的であろうけれども、その表現を受け取る相手を想定している。
実際に見るひとがいないと思っていても、それでもなぜか自身の表現を見つめるまなざしを感じてしまうのである。
それは現代社会の不安であるのか、あるいは我々自身の表現という行為の根源的な条件なのか。わたしは知らない。
ただ、わたしもまたなにかしらの表現をせずにはいられない。いまわたしは、まさに「あなた」を想定してこの記事を書いている。

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