雑想断想‐自由との闘い、ある夏

自然に帰されようとしている、魚や鳥や動物が、名残惜しそうにそれまで世話をしていたひとのもとを離れようとしないという映像を、いくつかみたことがある。いまわたしは、彼らの気持ちが分かったような気がした。彼らの気持ちは惜別などではなく、恐怖と不安だったのである。

***

これからの夏のあいだに、自由に処分してよいたくさんの時間をわたしは持っている。
特段のやらなくてはならないことというものはなく、自由な可処分時間が、ただ、ひろくひろく広がっているのである。

高知に行きたい、とかねてより思っていた。
すでに高知に行ったことはあるし、そのときに大抵の観光地は巡った。いや、そうした経験がなくとも、観光地らしい観光地に行こうという気はなかっただろう。
ただ私は、高知という、四国の南側の、山に囲われそして海と対峙しているその土地を、ただただ焦がれていたのであった。

———ほかの旅で青春18きっぷを3枚使う予定だから、残りの2枚をどこかに行くのに使おう。
そう思って、Googleマップをぼんやりと動かした。
液晶は、わたしの指にされるがまま、四国の入口から高知に至るJR線を、一駅一駅辿りながら示していった。
人口が密集しているであろう土佐の平野を超えて、かつて訪れた四万十の地へ———。
四万十町というのがあり、さらに西へゆくと四万十市がある。
地図で見ると、清流が山々の隙間にかろうじて作ったような狭いところに、建物が規則正しく並んでいるのがわかった。いくつかのホテルの存在が、ベッドをシンボライズしたピンで示されている。
かつて見た美しく輝く最後の清流の姿と、照りつける太陽の光を思い出し、わたしは四万十を焦がれた。
———しかし、いざ四万十に行って、自分はなにをするのだろうか。
ここで素朴な問が芽生えてしまったのである。
漠然と、単に彼の地を焦がれていた段とはちがい、実際に先の数週のうちに訪れようかという段になると、途端に目的や目標がないことに気付くのであった。

液晶に指を滑らせ、南国土佐のさらに南へ。
足摺岬。かつてそこを訪れたというひとから、いかにそこが辺鄙であるかを聞かされた土地。四国の南西で、太平洋に飛び出しているあの地である。

こうして、わたしの目的をもとめる漠然とした彷徨いは、ついに太平洋へと追い詰められてしまった。

そして、目的地などないことを認めざるを得なくなって、ふと私はとても不安な気持ちに駆られた。
———目的地がないのは高知への旅に限らず、おのれの人生それ自体もではなかったか、と。

***

目の前に広がる、単なるひと夏しばしの自由にすら不安と困惑と焦りを覚える若輩の私に、人生を見据えることはいまだやはり荷が重い。

そうか、圧倒的な自由空間へと放たれることは、こんなにも恐怖であったのだな。

しかし、生きるしかない。なにかをするしかない。
ひとまずは、この夏の自由をうまく飼いならし堪能してやることだ。
目的地がないならば、それを見つけることを目的にすればよい。
いつ帰るかも決めず、放浪を始めるしかない。
ひと夏を闘い切れぬやつに、人生は闘い切れない。
そうして、気付いてしまったかもしれない人生の虚無の深淵に、若いあいだだけでも、闘う情熱で目隠しをしておこう。
そうして闘ううちに、なにかを知るのだと信じて。

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