窓を同じくした者達よ②

(つづき)さいごの前話、これがおそらくわたしの直接的な致命傷だ。幹事としてわたしが任された仕事は、この学年での同窓会にも資金を援助してくれている学校全体の同窓会への会費納入をお願いするビラを配ること。宴会場は2階で、エスカレータを上がったところに受付があり、そのエスカレータの上のところで、学校全体の同窓会のおじいちゃん、おばあちゃんから託されたビラをひたすらに渡してゆくというのがわたしが実際にすることだった。
雰囲気も髪型も、実際の顔すらも変わってしまい、さらにはもともと全員の顔を知らないひとたちを、ホテルの宿泊客と峻別しつつあるいは声をかけてゆくことは意外にも大変だった。はじめは単に人見知りからひたすらビラを配るだけに終止していたのだけれど、途中で「これは、いかにもなスーツ/大人らしいドレスを着て、髪の毛はパーマをかけるか信じられないほどのスーパーストレートにワックスを塗って/美容院でモリモリにして、それを見せる場なのだ」ということに気付いてからは、もうあえてなにも話したくなくなって、ひたすらビラを渡し続けた。わたしだと気付いてわたしの名前を口にしてくれるひともいくらかいたけど、わたしにはとくになにも話すことはなかった。そんななかで、ふたつの場面をとくに重要なものとして覚えている。
高校生の頃、わりと親しくしていた彼は東京の大学に進学していたが、「ビジネス」に力を入れるようになっていることをなんとなく聞いていた。「おまえの時間とまってない?」と彼は高校の時のような感じで冗談めかして言ったのだが、それは、内的な変化や成長ではなく、いわば「大人的な社交の世界」にふさわしく外面をつくりあげることに意味があるとされているのだ、というわたしの見立てを象徴的に決定づけた。わたしはキェルケゴールとマーカーペンを放り込んだミニバッグの横に腰をかけて、伏し目がちにひたすら黙ってかつての同級生だった者たちを待った。
もうひとつの出来事。エスカレータのうえでビラを配っていたら、エスカレータを某・彦と某・嬢がつづけて昇ってきた。某・彦、某・嬢、そしてふたりの関係、それを取り巻いて本人らの知る所知らぬ所であった色々、そうしたすべてのことはいまのわたしにとって、甚だどうでもよいことである。また、昔のことについてイチイチの説明を講ずるつもりも一切ない。ただ、ならんだふたりを目にしたわたしは、事実どうしようもないどうしようもなさで胸がざわざわして堪らなかった。大学受験への集中、そして大学という新たな段階での活動、新たな出会い、学び、それらのなかで少しずつ吹き曝され薄くなっていた、すでに乗り越えたはずの、高校生の頃のどうしようもなく悩み、うずうず、悶々としていた自分が、刹那に時空を飛び越え襲い掛かってきたというただ単にそれだけのことだった。

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3つの前話、3つの出来事が、わたしの状況を構成し、そして同窓会がはじまる。

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わたしは、イライラとする。
アルコールイデオロギー、資本主義イデオロギー、そして消費社会イデオロギー。
幹事代表のあいさつまえぎりぎりに、空いている席を見つけ卓につく。各席には当然のようにすでに注がれたスパークリングワイン。それらしいことを直前打ち合わせですこし聞いた。もちろん同窓会だから会場には20歳を超えている人間しかいない。でも、20歳を超えていることは飲酒の条件にすぎない、超えているから飲むのが当然の理ではない。わたしの分はおなじ卓のひとに譲った。いざはじまると、料理を運ぶウエイターが歩き回るというのに、グラスを持って歩き回るひとたちがでてくる。すこししてトイレにいったとき、少なくないひとの顔が真っ赤になっているのが、とても不愉快だった。学生になれば当然飲む、飲まない理由が訊かれる、酒を飲むのが当然必要の理なのである。アルコールイデオロギー。
同窓会がはじまったので、とりあえずなにか話をしようとおもって、同じ卓のひとたちにいまどこで何を学んでいるのか、すなわち大学と専攻をおしえてもらった。でも、同じ卓のひとはみんな理系で専攻のことがさっぱりわからなかったし、話を広げようにもパーテーションでぜんぜん声が聞こえないので、話をするのは諦めた。それでほかのテーブルや、立ち歩いているひとたちの会話を手持無沙汰のたわむれに聞いていたのだが、しかしわたしが興味ある大学での学びとか普段なにをしているとかは、あんまり意味のない話題のようだった。話しているのはだいたい、お金の稼ぎ方とどんな大企業に就職するかのはなしばかりのようだった。わたしはもっと素朴に、高校のころの思い出とか、いまどういうことがたのしいのかとか、そういう話ができるのだとおもっていた。まったくわたしは、「社交」「宴会」というものについて世間知らずだったに違いない。大学でなにを学ぶかなどはどうでもよいことなのであるし、酒の場は社会をうまく生き抜くこと、情報を得ること、そしてお金を稼ぐ基礎を整備することのためにあるのである。資本主義イデオロギーだ。
そしてこの場にはもうひとつの意味がある、それは自己を顕示することだ。みんなが競うようにドレスを着ること、みんなに合わせるために形式ばった服装で来ることが負担にならないように「ふつうの服で」と案内することなど、杞憂の極致。ドレスを着ること、フォーマルな服装で来ること、それこそ若者の同窓会が持つ極めて重要な意義の一翼を担うのである。会場の隅の綺麗な壁の前に移動しては写真を撮る。写真を撮る。写真を撮る。ちなみに、高校の頃から可愛かった子はとくに写真を撮らない。変化が激しいひとほど写真を撮っている。どれだけ自分が変わったのか、大人になってきているのか、それを顕示し誇りあい褒め合い、気持ちよくなることにこの場が担う意味というものがある。記号化されたものを身につける。そして、つぎつぎと酒を流し込み、壮麗な会場で無駄なほど美しくマメに盛られた料理に手をつける。すべては消費社会のイデオロギーに取り込まれ、西洋式の波に飲まれている。この消費社会イデオロギーは同時に、ほとんど全員が隈なく大学へ進学し、2時間半の同窓会に8,500円を投げ打てる者たちの、ブルジョア特権のイデオロギーだ。

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もはやわたしはなんでもグダグダといってしまうことから逃れられない。なにかを分析することをやめられない。単なる同窓会をグダグダと考え込み、イデオロギーを描き出す。いまや、「イデオロギー・イデオロギー」状態に陥っている。いや、さらにはそれをまたメタ的に認識してしまい、事態は「イデオロギー・イデオロギー(・イデオロギー(・イデオロギー(・イデオロギー[……])))」と……(②終わり、つづく)

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