「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を見てきました


はじめに

まず注意書きとして、ネタバレ満載なので未視聴の方はまず(できればテレビシリーズを見て)映画館に行ってほしい。
私自身の文才の問題と、思ったことを書きなぐっているだけのため、きっと未視聴の方が見てもよくわからないと思う。

これは、鬼太郎テレビシリーズもごくたまにしか見ていないにわかオタクが数日前に映画を観た感想なので、うろ覚えな部分、長く「鬼太郎」、水木しげる先生作品を追ってきた方からは失笑に付されるような間違いもあると思う。ぜひ指摘してほしい。
そして、私と同じようなことを思った、あるいはまったく別の解釈を持った人と感想を語り合えたらうれしい。

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沙代と、彼女の家族について

この映画を見て、私の心に残った思いが二つある。
その一つが、沙代が、龍賀家があまりにやるせないという思いだ。
私は、龍賀家の次女、丙江を沙代のありえた未来だと思っている。
今は酒に肥り、誰と知れない男と夜を共にし、龍賀の三姉妹の中でも醜く老いてしまった丙江は、けれど序盤、水木の手に入れた写真の中では美しい少女だった。
写真の中の彼女や、彼女と血縁である沙代のかわいらしさを先に見ていただけに、時貞の葬儀の場に現れた丙江の豹変ぶりに驚いた視聴者もきっと大勢いるのではないかと思う。
彼女は、かつて沙代と同じように誰かに自分を連れて村を出ていくよう願い、そして「駆け落ちに失敗した」かつての少女だ。
映画中盤、丙江が男と共にいるシーンがあったが、そこでは相手の顔は見えなかった。
私にはこの男がかつて丙江が駆け落ちしようとした相手だとは思えない。
丙江を含めた三姉妹が沙代と同じように時貞に差し出されていたのだとすれば、丙江が駆け落ちしようとした男は龍賀家当主の女に手を出した不届き者だ。許されるはずがない。
丙江は、きっと愛した男と引きはがされ、実の父親に犯された女だ。
駆け落ちに失敗し、沙代の気持ちを誰よりもわかるはずの女だ。
その丙江が、よりによって沙代と水木を引き裂こうとする。
もしかしたら、かつての自分と近いからこそ許せなかったのかもしれない。
ただ愉しそうに沙代を脅す丙江の姿は龍賀にいればいずれ沙代もこうなると暗示していくようだった。
ただ、ここまでなら救いはあったのだ。
水木は、沙代に取り憑いた妖怪の姿が見えていながら、彼女と手をつないで、寄り添って暗いトンネルを歩いた。
隣の少女は自分など簡単に殺してしまえる化け物だと悟っていながら相棒を助けてほしいと沙代に頼った。
私にとっては、それが奇跡のような尊いものに思えた。
彼は一度だって沙代に怯えたり、忌避したりすることなんてなかった。
それなのに、沙代にはそれが伝わらなかった。
「祖父に貪られた汚れた体だということが思い人に知られてしまった」
「家族を殺し続けたおぞましい自分を知られてしまった」
沙代の嘆きも悲しみも理解できる。
それでも、水木は恐ろしいものに見えていた沙代と並んで歩けたのに、と惜しまずにはいられない。
ゲゲ郎というヒトではない異物を友として受け入れることのできた水木の前で、沙代は絶望し狂乱する。
まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のようだと思う。
必ずしも沙代の望む形ではなかったかもしれないが、それでも、「醜くても、おぞましくても、ともに生きることができる」という意味での救いならすぐそこにあったのに。


”目玉”おやじが目玉な意味

この映画を見て一番強く残った思いは、正直なところ「テレビシリーズの鬼太郎をもっとしっかり見ておけばよかった」というものだ。
もちろん映画単体で十分楽しめるものであることには間違いないのだが「テレビシリーズを全部見ていれば、きっとこの映画は100倍にも1000倍にも胸に迫るものになっただろう」という後悔が日増しに強くなっている。
というのも私には、作中のゲゲ郎=目玉おやじの「人間の世界を見届ける(これは本当にうろ覚えなのできちんと覚えている人がいたら教えてほしい…。そのうちまた見に行きます)」というセリフが、55年間の鬼太郎のテレビシリーズに遡って”意味”を与えるものに思えたからだ。
同胞は時貞の私利私欲のため使い潰され、幽霊族の中で残ったのは自身と瀕死の妻に生まれてすらいない赤子のみ。
散々人間の醜く悍ましい部分を目にして、それでも人間の水木を「友」と呼び、時弥に諭した「いつか」が来ることを願って人間の行く末を見続けることを宣言する。なんて重くて力強い誓いだろうか。

私は、けして鬼太郎シリーズの熱心なファンではない。
それでも、子供の頃に見た第五作目の雰囲気はぼんやりと覚えている。
六作目もたまに見ていた。
鬼太郎テレビシリーズの中で、妖怪はすでに廃れていくものだったように思う。主人公はあくまで鬼太郎で、目玉おやじはメインキャラではありながらもあくまで鬼太郎に寄り添う存在だった。
映画での「見届ける」というセリフがあったことで、今までは何でもないシーンだと軽く見ていた目玉おやじのいる風景がすべて、「友である水木の、人間の世界の行く末を見守る姿」になってしまった。
風呂に入れてくれと鬼太郎にせがむ場面も、鬼太郎の頭や肩でくつろぐ姿も、そういった場面のすべてが「意味あるもの」として重みをもった。
五作目や六作目を少しかじった程度の私でさえ、映画鑑賞後記憶の中のテレビシリーズすべての目玉おやじの姿が意味を持って押し寄せてきて押しつぶされてしまいそうだった。
55年間テレビシリーズを追い続けてきた方の衝撃はいかほどだろうかと非常にうらやましく思う。

最後のシーンもまたよかった。
記者の山田は廃刊になる雑誌の最後の記事に鬼太郎を載せたいと言う。
最後だから、鬼太郎のことを書いてずっと残していきたいのだと訴える。
狂骨・時弥の「どうか自分を覚えていてほしい」という叫びを聞いて、目玉おやじは山田の願いを了承する。
「人の世を見続けること」を選んだ滅んだ一族の妖怪と、廃刊になる雑誌に最後に「妖怪を残したい」と望んだ人間。
見ることは覚えることだ。見て、記憶して、残していくことだ。
”目玉”おやじは今まで見てきたたくさんのものを山田に伝えるだろう。
山田はそれを誠実に書き残して、少しでも多くの人が記事を目にするよう努力するだろう。
妖怪と人間は違うものだ。
でも、水木とゲゲ郎が友になれたように、山田と目玉おやじの「残したい/見届ける」という思いもきっと相通ずるものだと私は思う。


霊毛ちゃんちゃんこが大好きで大好きになったという話

これはもう本当にテレビシリーズを一通り見てから語りたいのだが、今作の「ゲゲゲの鬼太郎」への敬意と愛情、熱意には目を見張るものがあると思う。
前の【”目玉”親父の話】での遡ってテレビシリーズ全体に意味を持たせる構成もそうなのだが、個人的には霊毛ちゃんちゃんこの解釈・演出が特に素晴らしかったと思う。
そもそもちゃんちゃんこは「赤ちゃんに”還”る」歳である還暦に贈られるように、子供のための衣服だ。
ゲゲ郎には組紐だったものが、犠牲になった幽霊族全員の霊毛がより合わさって、生まれてくる赤子を祝福するようにちゃんちゃんこの形になる。
滅びゆく種族の、最後の子供に向けた祝福と「健やかに生きてくれ」という願いだと感じたし、実際それを意識しての演出だったと信じている。
このシーンから私は「鬼太郎は幽霊族全体から望まれて生まれてきた子供なのだ」という主張を受け取った。
私はこれらの設定は最初からあったものだとは考えていない。
製作スタッフが、「ゲゲゲの鬼太郎」という作品への誠意と愛情をもって考えを尽くしてつくった演出だと思っている。
だから、こんなにも愛される作品をちゃんと見ないともったいないと思った。
何より今この文章を書いている最中だってあまりよく知らない、にわかな状態であれこれと考えていることが恥ずかしくて悔しくてたまらない。

今DMMプレミアムでゲゲゲの鬼太郎一作目から六作目までが定額見放題とのことなので早速契約した。
誰か詳しい方いろいろ教えてください。私も見るので。


余談1・「孝三」とは

これは私のこの時代への理解が浅いことも原因だと思うのだが、孝三の存在がよくわからない。
龍賀の一族はそれぞれ男性の名前には「時」の字が入っている。
しかし、孝三だけは例外で、また、きょうだいの中では4番目(公式サイトキャラクター相関図の位置からなので根拠は薄いが…)にもかかわらず「三」の文字が入る。
もし公式サイトの相関図の位置が出生順ではないにしても、龍賀の五きょうだいで他に数字が入る人間はいない。なぜ孝三だけ名づけのルールが違うのだろう。
名前の違和感では女性の名前には十干が入る龍賀家の中で十干が入らない沙代も仲間外れだが、彼女は外部から来た克典社長の娘だ。まだ理解できる。
長兄である時麿は公家姿(白塗り、鉄漿、直衣)で「妻を娶ることもできずに修行していた」らしいのでなんでそこまで差が出るのだろうとも思う。
龍賀の男が所詮時貞の器でしかないのなら差をつけて育てる意味がないし時麿の「修行していた」ような祭事を執り行える存在はもしもの時のために何人か用意していたほうがいいと思うのだが。
考えれば考えるほどわからなくなってくる。誰か解釈を聞かせてほしい。


余談2・庚子の「時弥は私の子です!」という叫びがよく考えると悲しい

私は、予備知識を何も入れずに映画館に行ったので、最初長田(長田幻治)を庚子とは何の関係もない、乙米の愛人だとばかり思っていた。
乙米が本来夫である克典ではなく長田とばかりともにいるのを見て、時貞の近親相姦にすら手を出す好色な血が乙米にも受け継がれているとぼんやり見ていただけだった。
乙米の、時麿亡き後時弥を当主に据えるという話に庚子が「時弥は私の子です!」と反駁するのも映画鑑賞時は「この一家のことだからこれも時弥への親の愛とかではないんだろうな…」と鬱々とした気持ちで聞き流していた。
帰って初めて映画公式サイトの相関図を見て仰天した。
そうか、長田って庚子の夫なんだ。
でも、庚子が長田と共にいた場面は時貞の葬儀の時、隣に並んで座っていたシーンだけだったように思う。
正直長田と龍賀の姉妹との関係は乙米の愛人、というだけだと思っていたのでそれ以外の印象が薄い。
前述した時貞の葬儀の座る場所だってもうあいまいな記憶だ。
そこで初めて、庚子は夫である長田が乙米に付き従うのをずっと見ていることしかできなかったのではないか、と気づいた。
時貞が絶大な権力を握り、後継ぎには時麿、もしくは龍賀製薬社長である克典(とその妻乙米)が据えられる。
実際、時貞の遺産を引き継いだのは時麿と乙米だった。
庚子は、ずっと乙米の陰に隠れて、彼女に付き従ってきたのではないか?
そう考えると、「時弥は私の子です!」は夫を奪った傍若無人な姉への、せめて子だけは取られまいとする庚子の抵抗だったのではないか。


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