飯食ってるだけで金稼いでんじゃねえよボケ


現在の貴族様ことYouTuber様は、ただ飯を食っているだけで、飯を食えるほど稼げるらしい。なんともうらやましい限りである。そういうと、「じゃあお前もやってみろ」と言われるかもしれないが、その正論には言い返せない。しかし、日常系YouTuberへのもやもや感は一体どこから来るのだろうか。ルサンチマンという言葉で片付けられるかもしれないが、この違和感の正体がわからない。

世の中にはもっと正当に評価される仕事があるのに、それを横に置いて、大衆の心を揺さぶって金を稼ぐやり方が、堂々と行われていることにもやもやしているのかもしれない。または、自分もそうしたいのだろうか。もう自分でもわからない。自分を言語化できていない。申し訳ない。

実際に芸を披露したり、テクニカルなことや深い考察をした動画が再生数を稼ぐのは、真っ当だと思う。しかし、ただ飯を食って愚痴をこぼすだけで再生数を稼ぎ、小金を稼ぐことに対しては無論、僕はその手の動画は絶対に見ない。

上記から、世の中の理的に、すごいことをした人間が金を稼げるわけではないということは、立派な証明になっていると思う。例えば、数学者のガロアは自身の群論で生前に稼ぐどころか、学会からも相手にされなかった。有名なニーチェも、著作は生前鳴かず飛ばずで、病気から年金暮らしを余儀なくされていた。このように、すごいものを作ったり考えたりしたところで、それが世の中に認められるとは限らない。お金を稼ぐためには、極端にいえば大げさに何かを表現したり、人の心を揺さぶることで得られるのかもしれない。もちろん、すべての事例に当てはまるわけではない。

すごい思想や発明がすぐに評価されるわけではないというのは、すでに言い尽くされたことだ。飯を食っているだけで再生数と金を稼いでいる連中が努力していないわけではないと理解している。偉人が言っていたように、世の中は世界の理を理解し、それを実行した者が富を得るらしい。僕が嫌いな日常系YouTuberはまさしくその例なのだろう。彼らは、大衆の好むところを理解し、「飯を食って愚痴をこぼす」動画を流すことで稼いだのだ。彼らはある意味では正しい努力をしたのかもしれないが、僕の本音はこうだ。「そんなので金稼いでんじゃねえよボケ」。自分に正直であろうとする僕の本音はしょうもないものである。

別に僕は立派な学者でも思想家でもない。あくせく働いて日当を稼ぐプロレタリアートだ。クソみたいな労働をしている一方で、日常系YouTuberに恨みを抱くのはある意味では自然だ。ルサンチマンを否定するつもりはないし、それがいいとも思っていない。それで自分の人生が前進するわけでも稼げるわけでもないと理解しているが、やはりこう思ってしまう。「そんなので金稼いでんじゃねえよボケ」。醜い考えではあるが、これが人間だ。いくらきれいごとを並べても、ルサンチマンや嫉妬は人間の自然な反応だ。問題なのは、それに向き合わずに合理化すること、つまり自分に嘘をつくことだ。べつにいいじゃないか、ルサンチマンでも、それが自分だ。いくらきれいごと言っても、人間は醜いものである。


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