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大切なあなたは、たくさんの人のあなた(読書記録:平野啓一郎『本心』)

近くこんな日がくるんだろうな。
もうこの世で会えなくなったその人に、バーチャルの世界で会えるような日が。
でも、それって本当に私が会いたいその人なんでしょうか。

平野啓一郎 「本心」
自由死が法的に認められ、バーチャル技術が発展した近未来の日本。
自由死を望んでいる、と母から突然打ち明けられ、その気持ちを尊重することも、理解することもできずにいるうちに、母は事故で亡くなってしまった。母がどうして自由死を望んでいたのかわからないまま一人になった息子は、「母の遺したものから学習させたVF(バーチャル・フィギュア)の母」をつくり、共に生活を始める。母の本心を探るために。

バスの中で読み始めてすぐ「この本、最後まで読めないかもしれないなぁ」と思った。まだ読み始めて10分の1にさしかからないうちから、辛くて辛くて、ページを捲るたびに涙を堪えている。

たった二人だけの家族である母から、突然、生きることについて「もう十分」と打ち明けられたら。


主人公である息子は、その母の気持ちが受け入れられないまま、事故による永遠の別れという途方もない悲しみを、AI学習のできるバーチャルの母と暮らしながら、生前の母を知る人を訪ね、母の本心を探ろうとすることで消化しようとしていたけれど、私ならどうするんだろう。途方もない悲しみの中で自分がどうするかなんて、想像すら無意味なんじゃないかと思うくらい、わからない。
でももし、もう十分、と打ち明けられたら。
「私をおいていかないで」と責めたい気持ちになるだろうことだけは、わかる。

私は、あなたと一緒にいたいのに。

あなたも同じように、私と一緒にいたいと思ってくれているのではないの?

「母」も、確かに息子のことを大切に思っている。息子もそれを感じている。
だからこそ、息子の立場からすると、「母」の自由死を望む気持ちを理解することができない。

平野啓一郎さんの著書、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』で読んだことを思い出す。個人とは、多様な自己(分人)の比率により変化するもの。

息子が知る母の姿は、「私と接する時の母」だけだ。

大切な息子をひとりにするはずがない、ゆえに自由死を望まない「私と接する時の母」という分人がこの母の中にいた、ということは大いにあり得ると思うけれど、息子の知る分人が母個人の100%を占めることは、一方であり得ないことだ。

VFの母との生活を始めたのは、母の本心を探るためだったけれど、本質的には、本心を探るというよりも、唯一の真実だと信じている「私が知っている母」に会って、自分を慰めるためだったように思う。



ひとを理解することは、本当に難しい。何が好きかは教えてもらえても、どれくらい好きかは想像するしかない。一生懸命質問して近づくことはできても、どうしても同じ座標に辿り着くことはできない。
そして、一緒に過ごしてきた時間が長く、近い存在であればあるほど、自分との世界にいる時のその人が、いわゆる「本当のその人」だと思ってしまうところがある。

私以外の人との関係性の中にいるその人と、私との関係性の中にいるその人は、全てがその人の「本当の一部分」であること。

文字にすると当たり前だけど、私はこれを思い出すべき時に思い出せるだろうか。
受け入れることができるだろうか。


愛する人の他者性。愛する人の世界の奥行き。

最も理解したいけれど、
近さゆえに難しい、ジレンマ。


愛する母が亡くなったことをきっかけに始まった、本当の母を探す旅。
人はいつまでかわからない寿命を抱えて、知らず知らずのうちに誰かとの関係性を張り巡らせながら生きている。
適切な比喩かはわからないけれど、蜘蛛の糸の一本一本が分人だとしたら、その集合体である個人は、それが連なって出来上がった巣全体にたとえられるだろう。
この蜘蛛の糸は目に見えないけれど、それが同時に姿を現す数少ない機会のひとつが、死んだ時。
死ぬと言うと大袈裟だけど、誰かと別れてある関係が終わるとき(=その分人がなくなるとき)に、残された人たちから聞こえてくる思い出話や言葉の中に現れることは、お葬式や卒業式を想像するとなんとなく納得できた。
でも、できることなら、
生きて、一緒に過ごしているうちから、
この蜘蛛の糸に目を凝らせる自分でいたい。

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