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村田沙耶香『生命式』について-価値観に誠実でいること(ネタバレ注意)

こんばんは🌱
本日は村田沙耶香さんの小説『生命式』を読んで考えたことを書いていきます。2019年10月に単行本が、2022年5月に文庫版が河出書房新社より刊行されました。こちらの小説は短編集になっていて、収録されている物語は2009〜2018年にかけて、様々な文学雑誌等に掲載されていたようです。
ここでは収録されている12本の短編のうち、2本の感想を述べていきます。なお、物語の結末などもこの記事で書いているため、内容を知りたくないという方はここで回れ右されることをおすすめします。

『生命式』

あらすじ

表題作『生命式』は、死んだ人間を食べる儀式を通して男女が受精相手を探すという、1本目から度肝を抜かれる設定の物語です。30年ほど前までは人間を食べるなんて考えられなかった世界なのに、故人を調理して、生前仲の良かった人たちがその料理にいただきますと手を合わせることが今では当たり前だというのです。主人公である女性の池谷さんはその価値観の変化の速さについていけないと、会社の先輩である山本に愚痴をこぼします。山本は自分が死んだ時にどう調理してほしいか、レシピを用意していました。自分の生命式は最高に楽しいものにしたいと常日頃から言っていたようです。交通事故で突然亡くなった山本の調理をひょんなことから池谷さんは手伝うことになります。山本は遺していたレシピ通りにみぞれ鍋とカシューナッツ炒めになり、参列者から美味しいと言われながら弔われました。
山本の生命式を終えた後、海辺を歩いていた池谷さんは一人の男性に価値観の急速な変化についてどう思うか問いました。男性は「だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」「だからこれでいいんだと思いますよ。この世界で、山本さんは美味しくて、僕たちは正常なんです。たとえ100年後の世界で、このことが発狂だとしても」と答えます。

感想

「許される」ということは、価値観の醸成には他者が必要であるということかなと思いました。その発狂が許されるものなのか、許されないものなのか、それは自分ではなく他者が決めることであり、許された発狂が時を経て正常になっていく。「発狂」という言葉が使われると何だか大袈裟に感じてしまいがちですが、多くの人の間で共通認識である事柄が変化するきっかけというのは、それくらいエネルギーのこもった言葉でないと表現できなかったのかもしれません。時代の流れによって良いとされていたことが悪いことになったり、またその逆も発生する。日々の生活の中ではあまり意識しませんが、言葉にしてみると不思議なその現象を「発狂」と表したのかなと思いました。ちなみにカシューナッツの果実言葉(花言葉)は「愉快・敏感」らしいです。「愉快」は死後も自分の周りの人を笑顔にしたいという山本の性格を、「敏感」は人々の間に流れる当たり前を疑う池谷さんの性格を表しているのかなと思いました。


『素晴らしい食卓』

あらすじ

主人公の女性の家に女性の妹・久美と久美の夫・圭一、圭一の両親が食べ物を持ち寄って集まります。久美と夫の両親の顔合わせを女性の家で行うのです。圭一は久美が普段食べているものを両親に見せたいと言い、自分が前世の世界で食べていたという料理(たんぽぽと挽き肉をみかんジュースで煮込んだもの)を作りました。とてもじゃないけど食べられないという顔をした両親に女性が普段食べている食事を代わりに出しますが、「ハッピーフューチャーフード」という通販サイトで買った食事も両親は食べようとしません。両親が持ってきたものはイナゴと芋虫の甘露煮で、女性も久美もそれを食べようとはしませんでした。その光景を見て圭一は「皆が、それぞれの他人の食べ物を、気持ちが悪い、食べたくないと思っている。それこそ正常な感覚だと、僕は思うんです」「その人が食べているものは、その人の文化なんですよ。その人だけの個人的な人生体験の結晶なんです。それを他人に強要するのは間違っているんですよ」「僕が久美さんを素晴らしいと思うのは、彼女の食生活は独立しているからです。彼女は決して迎合しない。そして自分の文化を他人に強要することもしない。彼女は彼女の食べたいものを、僕は僕の食べたいものを食べて、仲良く暮らしていけると思ったのです」と話します。ちなみに圭一が普段食べているのはお菓子とフライドポテトです。そんな会話が交わされてるとは知らない、女性の夫がその場に合流し、「食は最高の文化交流の場だ。一食食べるごとにどれだけのことが学べるか。」「口に合わないものを食べる。それこそが人間を豊かにするんだよ」と、上機嫌で語るのです。久美がどくだみと小麦で作ったパンに芋虫の甘露煮を乗せ、フリーズドライの野菜を重ねて頬張るのを5人は青ざめながら見つめていました。

感想

相手の価値観を認めることも認めないことも個人の自由ですが、相手の価値観を認めるという価値観、認めないという価値観を相手に強要する不気味さが感じられるストーリーでした。
圭一も女性の夫も「その人が食べているのはその人の文化だ」という考えは共通しています。それを、自分を理解してもらうため・相手を理解するために文化を混ぜ合わせるのか、自分が自分でいるため・相手が相手のままでいるために距離を置くのか、という価値観の違いがこの物語で表現されていると感じました。どちらも自分と相手を思うからこそその考えに至るのですが、交わることなく分かり合うことなく、どこまでも平行線でいる未来が感じらます。これから家族になる人と分かり合えないという不安も相まって、心に引っかかりが残る終わり方だなと感じました。

まとめ

突飛な設定の物語を不気味だと感じられるのは、妙にリアルさが感じられるからだと思います。自分たちの日常や価値観からかけ離れたフィクションの場合、設定も語りも雑だと、「どういうこと?」「結局何が言いたいの?」となりかねません。あり得ない世界線のストーリーなのに没入できて、非日常を読んでいるはずなのに自分の日常に置き換えて「価値観」について考えることができるということに、この小説の面白さを感じました。5本目に収録されている『二人家族』は未婚のシングルマザー二人が一緒に穏やかな老後を過ごすという設定です。初出は2015年で、当時なら物珍しい目で見られるような家族の形かもしれません。しかしそれから10年も経っていない現在では、「家族にも色んな在り方があるよね~」くらいの反応が多いのではないでしょうか。価値観はわたしたちが思っている以上に短い時間で変化しているようです。その他の短編からは「自分が長い間抱いてきた価値観が変わろうとしていることへの動揺」「自分で自分をおかしいのではないかと思っていたことを、経験に基づく芯のある言葉で『おかしいことではない』と言ってもらえた時の安心感」「相手に気付かれないように自分の価値観で相手をじんわりと染めていく快感」を感じました。どの物語も読み始めは頭が混乱するような設定ですが、自分のことに置き換えて考えることができて本当に面白かったです。
相手との価値観の違いに悩むこともあれば、人と話すことで「こう思っているのは自分だけじゃなかったんだ」と安心することもある。一喜一憂しながら生きていくのは今までもこれからも変わらないようだし、いちいち一喜一憂してしまうのは大事にしたい人が身近にいるからではないかなと思いました。

最後まで読んでくださってありがとうございました。明日もいい日になりますように🌛