生まれたくなかったが、反出生主義者に抗議する

生まれたくなかった発達障害者だが、反出生主義者に抗議する

私は、ASDで、ADHDで、鬱で、自律神経が失調している。
反出生主義者が「こんな子が生まれるかもしれないから子どもは産まない方が良い」とか、「生まれた子がこんな風になるかもしれないから子どもは産まない方が良い」とか言うときの
「こんな子」「こんな風」みたいな人間・人生だ。

実際、「幸せですか?生まれてよかったですか?」と問われたら、自信を持って「はい」とは言えない。

ただ、それでも。
みんな子を産まないべきだ、とは思わない。
まあ、そう思ってそう主張する心情までは、理解できる。

でも、私の目に入る反出生主義者を自称する人たち(一部かもしれないがそれでも数が多い)の行動は目に余るし、自分自身の主義主張にすら反したことをしている。
そこには、抗議する必要がある。

反出生主義への理解

基本的には、「子どもを産まないべきだ」という主張。
そこに、「お金や手間や時間をかけられないなら産まないべきだ」「遺伝性の疾患や障害があったり容姿が優れなかったりする人は、それが遺伝するから産むな」というグラデーションがある。

そしてその理由は、「子どもが幸せになれるとは限らないから」「そんな環境に産まれてくる子どもは幸せになれないから」「疾患や遺伝や優れていない容姿を持った子どもは幸せになれないから」など。
その根底にあるのは、「人は幸せになるべきだ」「今の社会では人は幸せになりづらい」という人権意識や現状認識だ。

反出生主義者への抗議

特に、「誰も子どもを産むべきでない」ではなく、「〇〇な人は子どもを産むべきでない」という、条件付きの反出生主義を主張する人たちに対して。

理想主義なのに理想主義を否定するな

「人は皆子どもを産むな」「こういう人/場合は、子どもを産むな」という主張は、現実では叶っていないのだから、理想だ。
反出生主義者は、現状変更を望む、理想主義者だ。

それなのに、他人の「みんなが生きやすい社会にしていきましょう」「少しずつでもそうなってほしい」という理想には、
「そんな理想を語っても意味がない」と返す。

ブーメランもブーメランだ。

“今”の相対的な基準を絶対視しすぎ

条件付きで子どもを産むなと言っている、反出生主義者に対して。

どんな容姿が優れているか、どんな能力を持った人が優れているか、どんなことができないと障害か、というのは、時代によって変わる、相対的なことだ。
そしてその変化は、速くなってきている。
それなのに、“今”の社会に適した人たちだけを容認するのは、愚かだ。

社会での生きづらさを加速させる主張

反出生主義は、「今の社会が生きづらくて、こんな社会に生まれるのは不幸だから」という根拠から主張される。
それなのに、「親は、子どもを勉強やスポーツができ容姿を整った状態に育てろ」「そうでないなら産むな」と喧伝する。
そうすると、社会で求められる基準がどんどん上がっていってしまう。

この社会の生きづらさが問題なら、なぜそれを加速させるような主張をするのか。
生きづらい社会を作ることを望んでいるのか。

“〇〇な人は産むな”の無意味さ

遺伝は、「“良い”親から“良い”子どもが生まれる」という単純なものではない。
客観的に見てどんなに“良い”親からでも、「幸せになれない子ども」は産まれ得る。
また、子どもを幸せに育てる能力も、客観的に測れるものではない。

だから、反出生主義者が勝手に具体的な条件を決めて「〇〇な人は産むな」と主張することには、意味がない。

「幸せに育てられないなら子どもを産むべきでない」までは理想として正しいが、具体的にその条件を指定することは正しくない。
条件を指定し始めるくらいなら、「誰も子どもは産むべきでない」という方が潔い。

個人へのデリカシーない発言

個人に対して「あなたは〇〇だから子どもを産むべきでない」等々言い始めるのは、あまりにデリカシーのない行動だ。
まして、「子どもを産みたい」などと一言も言っていない人に対して、勝手にその人が子どもを産んで良いかを判断するのは、あり得ない。

子どもを産むか産まないかは、個人的で非常に繊細な問題だ。
他人が勝手に言及して良い問題ではない。

不特定多数に対して主張をするならまだしも、特定個人に対して、その個人が産むか産まないかの話を持ちかけるのは、主義主張の問題ではなく人として失礼極まりない。
絶対にやめるべきだ。

他者の人権の否定

反出生主義は、「人は幸せになるべきだ」という、人権を擁護する姿勢から出発しているはずだ。
それなのに、「〇〇な人は不幸になる」と条件を決めつけ、「〇〇な人」が差別されるように仕向ける。
これは、他者の人権の否定に他ならない。

また、誰かをよってたかって非難し否定することは、その人自身や、その人の周囲、その人と同じ属性の人を不幸にすることだ。
そういうことをしている反出生主義者は、自分たちが憎んでいるはずの生きづらい社会を作ることに加担している。

子どもを育てる人への否定

子どもを産み、育てて、大変そうにしていたり、悩みを吐露していたりする人に対して、産んだことを否定する言葉を投げつける反出生主義者をよく見かける。
最低で卑劣であり得ない行為だと思う。

まず、子どもを産んで大変そうな人の大半は、子どもの幸せを本気で願い、子どもに真剣に向き合うからこそ、大変な思いをしている。
子どもを幸せにしようとしているのに、なぜ否定するのか。

そして、「産まない方が良かったのでは?」という言葉を投げかけ、反論されたら怒ったり相手を馬鹿にしたりするわけだが
もし、「そうですね、産まない方が良かったです」とでも返ってきたらどうする。
もっと苛烈な否定を投げつけるだろう。

既に産んだ人に「産まない方が良かった」という言葉を投げつけることに、何の意味があるのか。

最後に

このように、特に条件付きの反出生主義と、反出生主義者を自称する人たちの行動には、問題がある。

反出生主義を取るなら、「誰も子どもを産むべきでない」と主張すべきだ。
それか、「幸せに育てられないなら子どもを産むべきでない」に止めるべきだ。
具体的な条件は、勝手に決められない。

そして、社会をより生きづらく、今生きる人を不幸にするような発言や行動は、控えるべきだ。

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