子どもの幸福は、“勝者”に育てることではない

スポーツができる、勉強ができる、見た目が良い。
子どもをそういう「勝者」にするために、多くの人が必死になっている。
そうでないといけないとさえ言われる。

確かに、個人の幸福追求としては正しい。
子どもは、今の社会で幸せになれるように育ててあげるべきだ。

結局イタチごっこだ

でも、考えてみてほしい。
みんなが人より上にいくことを目指していったら、どんどん大変になっていくだけではないか。
今より高い基準の中で、新たな格差が生まれていくだけだ。

自分たちで自分たちの幸せのハードルを上げてどうする。
幸せになりたいなら、簡単に幸せになれるようにした方が良いに決まっている。
まずはせめて、自分たちの幸せだけでも。

“勝者”を目指す子どもは幸せか

それに、運動や勉強や見た目を良くしたら幸せになれる、そうすべきだ、そうでなければ幸せになれない、と親や社会からのメッセージを受取りながら育つ子どもは、本当に幸せだろうか。
「勝者」になれたところで、幸せだろうか?

もし頑張ってもできなかったら。
怪我や病気でもしてしまったら。
ありのままの自分ではいけない。

あなたは何ができなくても生きていて良い大切な存在だ。何ができなくても幸せになれる。
そう育てられた方が、幸せではないだろうか。
そんな嘘は言えないって?
じゃあ、本当にすれば良い。

本当に“勝者”になれるか?

どんなに必死に手間とお金をかけたところで、子どもを「勝者」にできると断言できますか?

子どもに障害があったら?能力が高くなかったら?偶発的な問題が起きたら?社会の基準が上昇していったら?
その場合は、「勝者」になれないから幸福にはなれないね、と諦めるのですか?

それよりも、もし「勝者」になれなくても幸福になれる方が、良いと思いませんか?
じゃあ、そう育てましょう。
そういう社会にしましょう。

幸福の条件は、勝利ではなく尊重

確かに現状、「勝者」たちの方が、幸福になりやすい。
だから、「勝者」であることが幸福の条件なのだと錯覚しやすい。
でも、それは間違っている。
彼らは、自分自身と他者を尊重できているから幸福なんだ。
尊重こそが、幸福の条件だ。

社会的に恵まれた人たちは、互いに尊重を与え合いやすく、結果的に幸福になっている。
そこから学ぶべきことは、
「人は、尊重されることで他者と尊重し合うことができるようになり、幸福になれる」
ということだ。

“勝者”しか尊重されない?

更に、「“勝者”にならなければその尊重だって得られない」というのなら、
「“勝者”にならないと尊重を得られないことがおかしい」と考えるべきだ。

「勝者」でない人たちは、確かに今の社会では、尊重されにくい。
いじめられたり、過酷な労働を強いられたり、生活がままならなかったり。
だから、その人たちには人を尊重する余裕がなくなり、互いに尊重し合うのも難しくなる。

でも、今だって、社会的に見た「勝者」でなくても、尊重し合える家族や仲間がいる人は、なんだか幸せそうではないだろうか。
じゃあ、「勝者」を育てるより、誰かと尊重し合える子どもを育てよう。

“勝者”でなくても尊重し合えるように

人は誰しも、尊重されれば、他者を尊重しようとできるようになる。
だから、尊重される人を増やすことが、あなた自身やあなたの子どもが尊重されるために、幸福になるために、必要なことだ。

そして、大人には、子どもがこれから生きていく社会を優しくする責任がある。
絶対にある。

その社会の中での相対的な「勝者」でなくても、人として尊重される。
幸福になれる。
そういう社会にしよう。

まずはあなたの半径5mの社会から。
あなたが自分自身と誰かを尊重することから。

「勝者」を目指す戦いから完全には降りられなくても、「それしか幸福への道はない」とは、どうか思わないように。

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