【物語】若衰申請書②

——

……サラサラサラ。

……タッタッタッ。

不思議な音がする。

「ねぇ、知ってる?この世界には、別のポイント制度もあるみたいだよ」
ここはどこだろう?誰かが話しかけてきた。
「それは何?」
「慈愛ポイントだよ。これも若衰ポイントと同じようなシステムで、1枚につき80ポイントまで貯められるんだ。このポイントが貯まるとね、抱えてる悲しみや苦しみをひとつだけ消せるんだ」
「悲しみや苦しみ……」
「君は何を消してもらいたい?」

僕は何に悲しんでいるのだろう。何に苦しんでいるのだろう。いつの間にか理由もなく塞ぎ込むことに慣れてしまっていた。
今日と同じような明日がまたやってきて、結局生きてしまう。その繰り返しが悲しいだけで。生きていることが苦しい、ただそれだけで。
僕が消してほしいと願うものは、僕自身のはずだった。けれどなぜか言葉が喉に詰まって何も話せない。僕の『悲しみ』や『苦しみ』なんて、やっぱり生温くて贅沢な感情なのだと思う。

「いっぱいあって悩んじゃいますね」
僕は不器用に笑いながら言った。
「まぁ、若衰ポイントと違って慈愛ポイントは何枚でも貯められるからね。いっぱい良い事をするといいね」
とその人はケラケラ笑った。

そこで景色がぱっと途切れた。

「はっ、夢か……?」
知らない間に夢の世界へ行っていたらしい。正しくは気絶だろうか。どうやら死にきれなかったみたいだ。
薬とお酒が早く効いてしまった僕は、練炭とロープを使う前に意識を失ってしまっていた。
薄紅色の冷たい水の中、溺れることもなく眠っていたらしい。頭と傷口の痛みだけがズキズキと残っている。

夢の中でも感情の動き方は鮮明なものだ。せっかくだから夢の続きを思案してみようか。

慈愛ポイントと若衰ポイント、どっちが先に貯まるだろう。手近な幸せに期待してみようか?それとも覚悟を決めて自分を楽にしてあげようか?楽になるための最短距離はどっちなのだろう。
答えが見つからないまま、天井のしみを眺めていた。
考えることは一旦辞めよう。まだ頭が痛いから、もう一度眠りにつくことにしよう。

——

……サラサラサラ。

……タッタッタッ。

また不思議な音がする。

あ、あの人がまたいる。ケタケタ笑いながら僕に手を振っている。
「やあ、また会ったねぇ」
僕は少し怯えながら軽く会釈をした。

「どう?何を消してほしいか決まった?」
「いいえ……。それ以前に、若衰ポイントと慈愛ポイントのどっちを選ぶかで迷ってしまっていて」
「ええ?慈愛ポイントで良いじゃないか。悩みを消していって自分の生きやすい環境を作れるのだよ?楽しく過ごせるようになるのだから、わざわざ死を急ぐ理由なんてないじゃないか」
「それはそうですけど……。そこに辿り着くまでの道のりがどうも長く感じてしまうんです。ポイントをせっせと集めて悩みを一つずつ潰していくことが面倒というか……。そこまでして生きていきたいと思えない自分がいるんです」

少しばかり沈黙が流れる。
「なるほどねぇ。そういう考え方も確かにあるね。君はさ、いま何をしている時が一番楽しいと感じる?」

それはかなり返答に困ってしまう問いだった。
そんな感情もあったはずだな。気づかないうちにどこかに置き忘れてしまったみたいだ。

「『楽しい』とは違うかもしれませんが、若衰ポイントが貯まった時のことを考えると少しだけ心が軽くなります」
「ふむ」
「まだまだ時間がかかりそうなので、またすぐ憂鬱な気持ちにもなりますけど」
「若衰できたら何をやってみたい?」

またもや返答に困る問いを投げかけられてしまった。
死んだ先にやりたいことなんてあるわけない。死んだら肉体も精神もそこで全て終わりではないのか?この人はいったい何を言っているのだろう。

「……やりたいことなんてありません。若衰することが僕のゴールです。そこで終わりです」
「もしも続いていたとしたらどうする?」
「え?」
「勝手に自分の中で終わった気でいても、本当は終わってなんかいないかもしれないよ」
「何を仰っているのか、よく分かりません」
「死んでも君のその苦悩は終わらないかもしれないよ。それでも若衰を望むと言うのなら、僕はもう止めないけどね。あ、もうこんな時間だ。そろそろ行くね。さようなら」
「あ、あの」
「そうだ、最後に。若衰ポイントや慈愛ポイントは他の世界にもあるとは限らないからね。別のポイント制度を導入している世界もあるし、そもそもポイント制度のない世界もあるんだ。それだけは忘れずにね」

その人は逃げるように去っていった。
この世界の全てを知っているかのような不気味な目をしながら語っていた言葉。いったい何なんだ。誰だったんだ。

……ああ、思い出したことがある。

僕も考えたことがあったじゃないか。

『死んだところで楽になれる保証なんてないはずなのに』と。『現世が終わった瞬間、休む暇もなくまた次の世界が始まってしまうかもしれないのに』と。

それなのに若衰を切望するあまり、いつからか『死んだら楽になれる』と信じ込んでしまっていた。いや、信じ込んでしまったから若衰を切望するようになっていたのか。

この憂いだらけの日々が続いていくかもしれない。次の世界でも、次の次の世界でも。若衰ポイントで清算できるのは今の世界だけかもしれないんだ。もし、次の世界で『楽になれる』術がなかったとしたら……?

きっと次の世界の僕は、今の世界の僕を恨むに違いない。『なぜ慈愛ポイントではなく若衰ポイントを選んだのだ』と。『悩みを一つずつ消していけば確実に楽になっていたはずなのに』と。
ああ、どうしよう。慈愛ポイントを貯めていくことにすべきか?だとすれば、僕は僕自身の心と向き合わねばならない。今はまだ自分の悩みの実体を捉えられていないから。

ずっと自分と向き合わないまま、ただぼんやりと希望を描いていたんだ。ただ何となく楽になりたいだけだったんだ。やっと気づいた。

これだけ長い間目を逸らし続けてきた自分の心。すぐには解るはずがない。
ただ、決めたんだ。慈愛ポイントをゆっくり貯めながら、自分の心と逃げずに向き合っていくこと。そして、若衰以外の救いを見つけていくこと。

どっちのポイントを選ぶことが正解かをずっと考え続けてきた。でも、そうじゃなかった。
自分が選んだ道に責任を持つことが大切なんだ。自分の選んだ道を正解の道にしていく過程こそが、生きる醍醐味なんだ。

そう思うと、なんだか肩が軽くなった。

大きく息を吸い、部屋を出る。いつもの景色や道行く人たちをぼうっと観察しながら歩く。
歩行者信号が青になって、少年が横断歩道を渡り始めた。
あ!信号無視の車が突っ込んでくる。

その瞬間、勝手に身体が動いていた。

「危ない!!!」

少年を助けることしか頭になかった。

ドーンと強い衝撃音が辺りに響き渡る。
地面に転がった僕は、必死に目を開けて少年の姿を探す。どうやら少年は無事そうだ。良かった……。

手も足もぴくりとも動かせない。身体の色んな場所がじんわりと温かくて、その感覚がひどく気持ち悪い。困ったな。急激な眠気まで襲ってきた。
こんな場所で眠るわけにもいかないし、さてどうしようか。

——

彼は死んだ。

地面に倒れ込んだ彼のそばに、ある人がふっと現れた。

「君は若衰ポイントを使わなくても夢を叶えられたようだね」
「……」
「綺麗に終われたみたいだよ。君は今世付けで『退界』が完了したね。おめでとう」
「……」

同じに見える命の価値も、天秤に掛ければ傾いてしまうもの。せめて自分の影には指を差されないように、くれぐれも気を付けて生きましょう。

(完)

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