学校で古典の代わりに淫夢語録教えても変わらない
はじめに
youtube で社會部部長さん出している動画が面白かったので、考察していきます。
この動画では、「古典を「学ばせる」意義が、国民意識の形成である。」と結論していきます。
しかし、私は少し不満に感じました。なぜなら、古典教育がなぜ国民意識の醸成に使うべきなのかが明白ではないからです。
人間どうしの連帯意識の共有という意味では、淫夢語録で会話する淫夢厨と何が違うのでしょうか。
「春は揚げ物」といって面白いと思うこと、「24歳、学生です。」を面白いと思うことは、どちらも内輪ネタで盛り上がっていることには変わりないのではないでしょうか。
この動画のサムネを借りるなら、
ということです。(そんなこと理解できなくていいから(良心))
もちろん、私は「学校で、古典の代わりに淫夢を教えるべき」とは毛頭思いません。ですが、今日の古典教育を鑑みたとき、淫夢語録を教えることと見分けがつかなくなってしまうのです。
このnoteでは、まず、「淫夢語録を教えるべき」に対する反論を紹介し、それに対する再反論を行います。その次に、反論の中から正当なものを取り出し、そこから着想を得て、なぜ古典を教えるべきか、今の教育に何が足りないのか、どうするべきなのかを考えていきます。
今回は日本古典に絞って考えていきます。漢文は、「漢字を勉強する(=漢字の持つ意味を学ぶ)」の意義を完全代替するものがない限りは「役に立つ」と言えます。「外遊」を「仕事もせず遊ぶ」と捉えている人がいる時点で、漢字学習の重要性は明らかであると思います。
予想される反論
その1 淫夢語録はもとはホモビなので、公共の場にふさわしくない
再反論 源氏物語も、内容は公共の場で教えるには不適切な内容(基本卑猥なこと)がある。また、現代的な価値観とは合わないものも多い。
なのになぜホモビはだめで、源氏物語は大丈夫なのか
その2 淫夢語録は、方丈記や枕草子の様に情緒がない。
再反論 それってあなたの感想ですよね?
動画にもある通り、古典を学ばせる意味は、古典を通して、国民の連帯意識を共有するためである。そう考えると、日本人に培われた特有の価値観を学ぶのは、私も賛同する。
しかし、現在の古典教育から日本人特有の価値観を学び、連帯意識を共有するのに効果的だろうか?淫夢語録で会話してるときのほうがよほど、連帯意識を持つ。
その3 淫夢は中国でも人気なので、日本人特有の連帯意識を形成できるかは怪しい
再反論 なんで漢文教えてるの?
興味深い反論
ただ、一部、的を射ているものもあります。そこには、「古典を義務教育で教えるべき」ことの論拠の助けとなる部分もあります。
その一 古典は淫夢と比べ、歴史がある
古典は長い歴史の中で多くの人が関わってきたものです。多くの人が関わっているからこそ、歴史の流れの中で紡がれてきた特有の価値観が備わっていると考えられます。(私は寡聞なため、例を出せないが)淫夢もたくさんの人が関わっている()のですがね。
ただ、現在の教育で、それを感じることは少ないです。価値観を直接知りたいなら、源氏物語ではなく、本居宣長を勉強させればいいと思います。
問題を見直す
古典学習の意義を考えたとき、そもそも「国民意識」とは何か?という問題に突き当たります。
この問いの答えとして。
私たちは私たち以外と何が違うのか
すなわち、彼ら:=私たち以外 とすると、
私たちは彼らと異なり、世界をどのように認識し、何を考え、発信しているのか
どうしてそのような思想に至ったのか
(上二つの問いをもとにして、)私たちはこれからどのようなことをすればよいか
この答えをざっくりでも共有してこそ、国民意識を持ったといえるのではないでしょうか。
淫夢は特にこの2番目(と3番目)の問いに答えることが難しいのです。そして、現在の古典教育もこの問いに答えられるかは怪しいです。
これからわかるのは、「古事記」「日本書紀」を教えるべきではないか。 ということではないでしょうか。創世神話は事実かどうかに関係なく「私たち」のルーツの提示としては最適です。
また、現代の国家制度(天皇制)に繋がるものであることも重要でしょう。
もう一つは、「古典を受験科目から外したほうが良いのではないか。」ということです。
受験科目に指定することによって、無駄に古典文法や古語を覚える時間を取られます。これは本来意図することとずれてしまいます。
受験科目にすることによる勉強の動機付けという観点もありますが、定期試験で出されるなら、勉強する理由としては十分ではないでしょうか。
もしくは、日本史or倫理に吸収してしまうのもいいかもしれません。
もし、「戦前の国粋主義が~」という人は、倫理に吸収させて、バランスを取ればよろしい。(具体的には、反ファシズムの思想を同時に教えるとか。)
最後に
古典教育の目指すところが内輪ノリである以上、ネットミームと何が違うのかという批判が起こるのは当然でしょう。特に古典の内容がガチガチに卑猥な内容や、現代の価値観にそぐわないものであればなおさらです。
そこで、古典のもつ「歴史」にスポットを当てて、その意義を見直すことが必要となります。
これからの日本社会は、海外にルーツを持つ人が多くなるでしょう。ここで、どのようにして、「日本人」であるといえるのでしょうか。厳密には「日本人」の意識を共有するのでしょうか。
この問いの答えとして、古典教育は有用な解決策となりえるでしょう。
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