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またもや歳をとりました

 「恥の多い生涯を送って来ました。」と言う書き出しで始まる「人間失格」の手記を初めて目にしたあの時から、もう結構時間が経った様で、またもや歳をとってしまったらしい。20歳を超えて歳をとりたくないと考え始める様になりはしたものの、結局のところ“私の日”である事が少し嬉しいものであった。去年の今頃の私をふと思い返すと、まだ仕事というものがもやがかかった様にイメージ出来なくて、それ以前に就職にあたる面接すらも作り物からのイメージで、ただ何となく就職しようとしていた就活の真っ只中だった。渋谷のスクランブル交差点の真ん中、少し大きめの背広を着た草臥れたサラリーマンに擬態した私は「働くってなんなんだ」と面接の帰り、忙しなく動く人の濁流の中で項垂れながら考えていた。答えが出る事はなかった。

 この一年の中で、私がいつも書いている「脳内再生」に仕事について書く事が増えていて、私自身の生活や思考に仕事が大きく侵食をしている事をよく表している。ここ最近はこれまで書いて来たnoteにも仕事に対するものが多く、人として生きていくのには当たり前なものがこんなにも私にとって不愉快極まりないものであるという事を知ってしまったが故である。朝起きて、準備して、出勤して、仕事して、残業して、帰宅して、飯を食って、寝る。それを1週間のうちに5回繰り返すのは“普通”の人にとっては何となくでもこなせるのかも知れないが、私は本当に耐えられなかった。

 何が言いたいのかと言うと、私がこんなにも“普通”でいられない事にこの一年で気がついてしまい、私自身が一番失望しているのである。「気がついて」と書いたが、実は目を逸らして見ないようにしていた事もここで自白しておく。片鱗を感じさせる事が今の今まで生きて来て幾度となくあった。そのばら撒いた伏線を自ら回収しにいくのだから、これ程滑稽な事もないだろう。
 友人に「働きたくない」と話すと、大抵「わかる」「面倒だもんな」と返してくるが、私は単に面倒だから仕事をしたくないのではない。面倒である事は否定はしないが、私の話している仕事に対する嫌悪は、仕事をする事によって確実に浮き彫りになる周りからの劣等感と、私自身の血肉に刻まれている“普通の事が出来ない”という失望の烙印から来ていて、それがまざまざと目の前に繰り出されて私は膝をついてしまうのである。

 就職の宣言から一年、今勤めている勤務先の契約期間を含めて人生においての「社会人編」となるが、私が息をする限り金は無くなるのであり、本当にどうしようもなく仕事を続けなければならない事は変わらない。これを当たり前のようにこなしていく人間には、その頑張りに溢れんばかりの賞賛を贈りたいが、どちらかと言うと考え方や性格が時代に沿っているとして羨望と嫉妬の気持ちが入り混じる視線を向けてしまうだろう。

 そろそろ仕事に関して書く事はもうよしたい。仕事が嫌で記載が増えているのか、記載が増えてるから仕事の事を考えて嫌になるのかの順番が曖昧になっている。これから自身のキャリアをどうして行きたいかだのは私にはどうでもいいのだ。

 私が寂しがり屋であるという事に気がついたのは最近であり、「誰かと話したい」とよく考えるようになった。1人が楽しめなくなった。私は元来、ゲームをしたり、1人で酒を飲んだり、ギターを弾いたり、本を読んだりと1人でする趣味が多いのだが、何故だがあんまりが手が進まない。仕事の休みで時間が有り余っていても、1人である事からの逃避の為かTwitterや YouTubeなどの何となくの情報で食い潰してしまう事がよくあり、休みが終わった後にそれとなく罪悪感を感じてしまう。ここ最近の気温は低く、半袖では寒いと感じるぐらいになってしまっているし、人肌が恋しいだけなのかも知れない。

 仕事の通勤時間、もしくは暇な時間を見つけて、仕事で使う勉強などそっちのけで小説を読んでいる。基本読むのは青空文庫にある文豪とされる人間達の小説で、もう既に何冊か読み終えている。今は「怪人二十面相」を読んでいるが、前回読んだ夏目漱石の「こころ」の言葉遣いとはがらりと変わって読みやすく感じた。日本語って本当に難しい。感想はもしかしたらどこかへ書くかも知れない。感じた事はどこかに書き留めておきたい。

 久々に雑記を公開するが、私はまだ健在であることが上手く書けていればよいと感じる。まだ続きを書いてない小説があるのは気長に待っていてほしいが、公開した後でも少し手直しをしたい気持ちもあるので、一旦下書きに戻す可能性がある事を書いておく。私も例に倣って「恥の多い生涯」であるので、そんな生涯なら吹っ切れなければ損だと、私の歩んで来た獣道を細々ながらもこれからも書いていく。

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