漠然たるマイノリティ、教養による救済。

 私はいつも、自分が「なんとなく人と違う」感覚があった。
自分で言うのもどうかと思うが、どちらかというと社交的だし、職場にもすぐなじめるし、趣味も多くて交友関係は広い。客観的にみるとマジョリティに属する人間のように見えるのに、なぜかずっと心が他人と馴染めない感覚があり、自分と世界が乖離しているような感覚がずっと消えなかった。

 例えば、恋愛の話。昔からずっと恋バナが苦手だった。恋バナをするときには必ず「気になる人」「好きな人」「恋人」というその場にいない人の話題になる。そして、その会話の中ではその人自身が想定していないようなプライベートが垂れ流されたりして、そんな話を聞くことにものすごく嫌悪感があった。また、「人はすべて彼氏や彼女の存在を欲している」という前提で成り立つ会話もものすごく苦手だし、恋バナだけでなく知り合ったばかりなのに恋愛的アプローチをかけられることも苦手だし、信頼関係がないまま恋愛関係になることも感覚として理解できなかった。

 だけど私自身、恋愛にまったく興味がないと言うわけではなく人並みに好きな人ができることもあるし、数は多くないにしろ異性と付き合うことだってあるので、飲み会の席では踏み込んだ話は適当にはぐらかしつつ、それなりに会話に入って誤魔化している。だから、外から見れば私はただシャイで慎重なだけで、「マジョリティのように見える」のだ。

 似たような例で言うと、人の噂話や悪口を聞くこともものすごく苦手だ。飲み会なんかでうっかり悪口にのっかってしまおうものなら定期的に自分の言葉を思い出して一人で落ちこんでしまうし、自分自身のことをいない場で話されることにも恐怖心がある。別に正義感があるとか、いい人だと思われたいとかそういうことじゃなくて、感覚的に本能が受け付けられない。

 でも、こういう感覚は一般的に理解されづらく、私はずっと、これらの感覚の乖離の正体がわからないまま、見かけは世界に馴染めているのに心はどこか遠くにいて、「名前のない生きづらさ」を抱えて生きていた。

 ところが近年、この「生きづらさ」に少しずつ名前がつけられていることに気づくようになった。今回出した例で言うと『デミロマンティック』というセクシュアリティの分類や、『HSP』という心理学的な分野の言葉が近いと思う。(この話の主題ではないので細かくなにがどう当てはまっているという話はここではしない。)

 HSPやジェンダーマイノリティについては、既にさまざまな議論があり「肩書きを武器として使うこと」への嫌悪感を示す人も一定見受けられる。確かに私自身もこの言葉を振りかざすことは好ましいことではないと思うが、こうした言葉の普及と共にどれだけ多くの人が救われただろうと思う。

 私は、人間の不安には『原因のわかる不安』と、『自分ではどうしようもない、手の届かない不安』と『そもそもどうにかしなくていい不安』の3つがあると思っている。

 『原因のわかる不安』は、「仕事が終わっていないから不安(だから終わらせよう)」とか、「恋人と価値観が合わない(から話し合ってみよう)」とか自分自身の行動によって結果を変えたり、時には直接的に解決できる不安。
 『自分ではどうしようもない、手の届かない不安』は、「なんとなく将来が不安」のような当人も何が不安かわからない言語化されていない不安であったり、「恋人に振られて辛い」のような自分を変えることでは必ずしもうまくいくとは限らない不安。
 『そもそもどうにかしなくていい不安』は、そのままだが、例えば「自分はガサツだから嫌われる(=よく言えばおおらかだから、それを好きな人もいる)」という視点を変えると長所にもなるような不安。

原因のわかる不安の場合は、(もしかすると次の不安にぶつかるかもしれないが)自分自身が行動することで少なくとも「今まさに直面している不安」からはだいたい回避することができる。一方で、当人の力が及ばない不安については「忘れるまで待つ」とか「その場所から離れる」とか「我慢する」とか消極的なアクションを取らざるを得ない。行動した結果どうにかできる不安の方が、圧倒的にストレスがかからないだろう。さらに、そもそもどうにかしなくていい不安については、どうにかしなくていいのだからもっと楽だ。(正確には自分を受け入れることも難しいのだけど、一度マインドが変わってしまえばその先いくらでも応用が効くので人生の中で占める不安の総量は少なくなるはず。)

私は、この『自分ではどうしようもない、手の届かない不安』をその他の不安にできるだけ細かく分類して、行動していくかが人生の不安解消のカギだと思っている。

 最初に話したような「名前のない生きづらさ」はどこに分類されるかというと間違いなく『自分ではどうしようもない、手の届かない不安』に分類される。ところが、「名前のない生きづらさ」は名前をつけられた瞬間、『自分ではどうしようもない、手の届かない不安』ではなくなるのだ。もちろん、名前があるからと言ってまわりにすぐ受け入れてもらえるかというと絶対にそんなことはないけれど、名前がつくことで解決する手段やコミュニティへのアクセスは簡単になる(少なくとも孤独ではなくなる)し、それが生まれ持った性質なのであればどうにかする必要がないと思えるかもしれない。

 長々と書いてきて、結論なにが言いたかったかというと『教養を得ること』がいかに大切かということ。これだけ書いてなにを当たり前のことを言ってるんだと思われるかもしれないが、《身の回りに起こっていることは「言語化」によって整理され、解決の糸口を見つけることができるし、その「言語化」をするためには事柄と事象を結びつける「教養」が必要である》ということを身をもって感じたので今回改めてここに記録してみた。

名前や分類に縛られず、でも自分の不安を解決する道具として扱えるように、これからも適切に教養を身につけていきたい。

2022.08.03 さらり

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