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2024.2 セキセイインコ

先日、勤務先で連休を生成し、友人の赤さんに会いに行った。
赤さんは非常に可愛らしく、見ているこちらの寿命が50年ほど伸びたと思う。
私は職務経歴書に書けることが特にない人生を送っているが、赤さんに会った後は、きちんと労働して納税せねばならぬと強く思った。それに選挙も毎回きっちり行こうと心を新たにした。
赤さんはすごい。
大人を頑張らせるちからがある。
ちいさくて生命に満ちていて、しかし大人の助けがないと生きてゆけぬ、赤さん。
赤ちゃん、では敬意が足りないため、赤さん、と呼ぶ。
彼らが生き残るために、私も私にできることをして生きていかねばならぬ。

そんな赤さんであるが、お会いしたその日に何枚か写真を撮らせてもらった。
そして、赤さんの母親(私の友人である)から、赤さんのピンショットはSNSに掲載してもよいという許可ももらった。
そこで先ほどまでネットの海に赤さんの生命力を放つべく写真を選んでいたのだが、

これは…可愛いな…可愛いからどこの誰とも知らない人に見せたくないな…見せんとこ…これは…盛れてないな…盛れてないのは本人が大きくなってから嫌かもしれんしな…盛れてないのも載せんとこ…これは美しい…こんなに美しいものをタダで見せてたまるか…

そうこうしているうちに載せられるものはなくなってしまった。
そもそも赤さんは友人宅の赤さんであって、一度だけ会った私が彼の写真をネット上にあげるというのもいまいち説得力のない話である。
赤さんの写真は載せたくない、だが文章だけだと少し寂しい。
とりあえず気軽にネット上に放出できる写真として、拙宅で飼育しているセキセイインコ2羽の写真を載せておこうと思う。

セキセイインコ、メス、今年2歳
セキセイインコ、メス、今年3歳(発情気味)
2羽で遊ぶ
2羽で穂を齧る
2羽で穂を齧る

トリたちの写真を載せるときの、なんと気楽なことか。
トリたちの写真においては、赤さんの写真を選んでいた時のような葛藤は一切存在しない。

これは可愛い…あげとこ…これも可愛い…あげとこ…これはちょっとな…あげとこ

非常にシンプルである。
私の中で「トリの写真」はそれなりに軽く、「赤さんの写真」は重い。
こう書くとまるで私がトリの写真のことを軽んじているようにも感じられるが、そうではない。トリどもは私に飼育され、一生を私と共にしている存在である。彼女たちの全ては私に責任がある。よって、私がトリたちの写真をSNS上に載せてなんか、例えば心無い人からのヘイトを浴びることがあっても、私が「Oh…」となるだけで済むのである。
これが人の家のトリさんであったなら、私は赤さんの写真と同様、載せないと判断するかもしれない。

SNS上に載せたくない写真は他にもある。
例えば、その日撮影していたモデルさんのとても可愛いオフショットや、同居人の私生活、友達の家の写真。本人が載せるなら素敵だけども、私が載せるのはちょっと違うんじゃないか。
うまく言語化はできないが、この「ちょっと違う」の部分は私の価値観を守っていくためにとても重要な気がする。

ひょっとすると写真撮影を趣味とすることは、こういった自分の中の価値観を明確にし続けていく試みかもしれない。
間違いなく大袈裟な言い方であるが、今後も心の片隅に置いて大事にしていこうと思う。

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