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自分の生活と料理

 料理が好きだ。

 2年前に一人暮らしを始めるまで、料理は母にお任せで、ほとんどしてこなかった。ただ、自分で食事を用意する、という選択肢を持てないことは、自立したとは言えないのではないか、と思い、引っ越した当日からキッチンは使っている。

 料理は発見の連続だった。中華料理の味は、鶏がらスープやオイスターソースの味であることや、キャベツからはやたら水分ががでることはすぐわかった。そして食べられるものと美味しいものとの間には果てしない距離があることも。

 自分で作ったものは味がパッとしなかった。とにかく水っぽいし、口当たりはモサモサする。15分でできるお手軽レシピを調べたはずが、気が付いたら1時間以上たっている。調理に時間がかかる分、期待値も上がって、食べた時のがっかりも大きくなる。引越し1週間程でたべたセブンイレブンの冷凍チャーハンの感動的な美味さは一生忘れないだろう。

 しかしそれでも続けていくと、どうやら火加減か足りないらしいとか、レシピより若干水を少なくした方がうまくいくとか、それなりに学んでいった。実力もわかってくれば無理に手の込んだ料理をすることもなくなり、期待と結果のずれも小さくなっていった。

 自分の実力に制約されるものの、食べたいと思ったものを作れるのはうれしい。テレビで特集をしていた天津飯を作ってみよう、とか、漫画で見たじゃこのパスタはどこかに再現レシピはないかな、とか思いながら、メニューを考えることもある。

 料理は感情が動くのが楽しい。どうしても単調になりがちな日々の中で、スーパーのセール情報と冷蔵庫の中身とかけれれる時間を考えながら、作るものを決めて、iPadでレシピを見ながら必死に作り、まずい時は悲しく、うまい時はうれしい。頭と心を動かす貴重な時間だ。誰かの食を支えているわけではないので、外食したり、お菓子で済ませたっていいのだから気楽なものだ。何を食べるか選択できることは、自分の生活をコントロールできている実感をくれる。

 その分、残業で終電近い電車に乗る日々が続くと、料理ができないということが、さらに自分の生活をできていないという実感を強くする。そんな時には、無理やりにでも料理をすると、生活ができている実感が手に入る。それがたとえ豆腐と鯖缶を和えて醤油をかけただけでも心が安らぐ。習慣化が、生活に安定も不安定も与えているようだ。

 気が付けば調味料もすっかり増えてしまった。オレガノを使い切るまで、下手の横好きが続けばいいなと思う。

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