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北村家へ向かう

 冬の終わりに降る雪は、この地方ではそれほどめずらしいものではない。しかし、今年のようにそれが3日も止まずに続くなどということはまれである。雪は四日目の朝も降り続いていたが、午後になるととたんに雲がきれて、青空がのぞいた。あっけない止み方だった。どこもかしこもが雪でうめつくされた中で、ただ川だけは、そこがひとすじの帯となって流れていた。しかしその面にはもやがかかり、遠くの方は雪と区別がつかなくなっていた。雪の下では、春にはい出す地虫たちがうごめき、それが柔らかな雪の表面を波立たせていた。

 そんな光景が月の光に照らし出されている。私は河原に沿った主要幹線の歩道に立ち止まり、それを見ている。地虫たちのにぎやかな騒ぎに雪が波立ち、川面のもやがゆるやかに流れ、月の光は、さらにゆっくりと影をつくっていく。三日間の雪のため交通はまったくまひしてしまっている。川の中を、とがった氷が流れていく音が聞こえてくる。私は歩いて行くよりしかたなさそうだ。ここより少し上にある橋をわたって、林をぬけて、少し行ったところに北村という家がある。もう約束の時間はとうにすぎてしまっている。私は再び歩き始めた。

 橋をわたる少し手前で、私は黒い外套を着た男とすれちがった。その男は、すれちがいざまに、片手で帽子を軽く持ち上げ、会釈した。暗くて相手が誰であったか、私にはよくわからなかった。私も軽く礼を返したが、ずいぶんと無礼をしてしまったのではないかと橋を渡りながら考えた。いや、それよりも私はその男が誰であったのかが気になった。このへんで私の知合いというと北村ぐらいしか考えられない。当の北村が、私が遅いので、探しに来たのかもしれない。それにしては、すれちがって行ってしまうのはおかしな話である。あるいはさっきの男が、私を誰かと間違えたのかもしれない。しかしあのときは、私のほうもあの男のことを確かに見知った男と思ったのだ。それともやはりあれは北村本人で、暗がりであったため、私とはわからずにすれちがってしまったのかもしれない。しかしあの男は、北村よりももっと小柄に見えた。私とよく似た体格だった。私は、あの男のことを考えながら林の中の道へと入って行った。

 林の中で道は二手に分かれている。左手の方が暗いが近道なので、そちらを通っていくことにする。今夜は月が出ているし、雪明りで、それほど暗くは感じない。しばらく歩くと向こうから男がやってくる。さきほどの男に似たような背格好だ。男は、私の姿を見て、少しばかり驚いたようだった。夜の林の中で急に人に出会ったら誰でも驚くものだ。男は、私とすれちがうときに「雪が止んで良かったですね。」と言った。私のことを警戒してそう言ったのかもしれない。しかし男はずいぶん簡単な、まるでふだんの挨拶のような口調でそう言った。私はこの男を見ながら、またさきほどの男のことを考えていたので、急に声をかけられてとっさには、「ええ。」とか、「まあ。」とか、そんなことしか言えなかった。まったく今夜は不思議な晩だと思っていると、さきほどの男がもどってきて後ろから声をかけて来る。何事かと思って振り向くと、
 「あなたはどこへ行くのか。」
と男が聞いてくる。変なことをきく男だと思いながらも、この先にある友人の家へ行くところだと答える。すると男は、
 「そちらは山が燃えているだけで、危ないから、やめなさい。」
と言う。山が燃えているとはいったいなんのことなのだかわからぬが、私はとにかくこの先の家へ行かなくてはならない。私はこの道を何度か通った事があるし、林の中にはいる前から頭上に出ている星を頼りに歩いているから、道も間違えていない。

 「しかし、あなたが頼りにしていたオリオン座はもう没んでしまい、その星の火がもとで山が燃えてしまったのです。」
と言い、その男は林の先の方を指差した。私はそちらの方を眺めてみたが、何かが燃えているような気配などない。
 「だいいちあなたのかっこうは、よくそれで暑くありませんね。」
冬の夜にこれぐらい着込んでいてもまだ寒いくらいなのに、まったく不思議なことを言う男だと私は思った。それから、何故かわからぬがこの男にむしょうに腹がたってきた。私はこんな所で、この男とつきあっているような暇はない。約束の時間はとおに過ぎてしまっている。
 「この暑いさなかによくそんなものを着ていられるものだ。まるで我慢比べでもしているみたいじゃないですか。」
 「暑いさなかにですって。今は冬で、しかも夜だし、雪もこんなにあるじゃないですか。」
私は声を荒だてて言った。すると男はなにか不思議なものでも見るような顔つきで私を見た。
 「今は夏の、それも真昼間ではないですか。」
男はゆっくりと静かにそう言った。そう言われてみれば、私もさっきからセミの声を聞いていたような気がする。どこからかカクレバナの香りもただよっている。ねむたげな甲虫の羽音や木葉がそよぐ音も聞こえる。その木葉は太陽にぎらぎらと輝き、むしかえすような土の臭いの中を風がわたっていく。足下の土の道の上を、地下からはい出した地虫が歩いている。そこに汗の滴が一粒落ちたが、すぐに土の中にしみ込んでしまった。私もさすがに暑くなり、着ているものを脱ぎ出した。
 「全く、こんな暑い日になんだってこんな厚着をしていたのでしょう。あなたが言うように、これではまるで我慢比べみたいだ。」
私は脱いだ物を手に持ってどうしようかと思ってたら、
 「実は私の家は古着屋をやっているのですが、もしよろしければ、あなたのその外套を譲っていただきたいのですが。」
と男が言い出した。どうせその外套は、あちこちが傷み始めていて、今年限りと思っていたところなので、私は外套と帽子を男に安く譲ることにした。
 「これはなかなかの上等を譲っていただいてありがたい。今度近くへ来たら、ぜひ店の方にも立ち寄っていただきたい。」
などと言い出して男は急に機嫌が良くなった。私はなんだか男にうまくしてやられたような気がして、外套が少し惜しくなってきた。
 「では、こちらのほうはまだ寒いので、私はあなたのこの外套を着ていくこと にします。」 男は私の外套と帽子をつけると、「それでは」と、片手で帽子を軽く持ち上げて去って行ってしまった。ずいぶんと道草を喰ってしまったが、私はその男に背を向けて、北村家へと向かった。
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