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情報発信には責任がある

昨日は朝からお気に入りの渓へ。
午前中3時間でイワナ10匹とまずまず。
昨年最後の釣行で逃したと同じと思われる個体が食いついたときは、今までにないほどにドラグが鳴き、そのままバレてしまった。
その魚影から尺越えは確実で、口惜しさが残る。
それでもMAX27センチと満足の釣行だった。

さて。

職場で本業の傍らネットワークシステムを組むようになって、ちょうど20年。
今年は新しい取り組みをまた一つ始めた。
なんとなく始めた今回の件に、ひとつ腑に落ちたことがある。

「情報を流したもの勝ち」ということを理解した。
「声が大きいもの勝ち」も同意語。
正しさとかあまり関係なく、情報量が多かったり(特に短いセンテンスで回数が多い場合)、情報のアピール度(声の大きさ)が大きいと、内容の理解度に関係なく、脳はそれが真実だと錯覚するのだと思う。

何かで結果を出すためにかける暗示のようなもので、信じ込むことで現実を創造することに似ている。
専門的な勉強をするときに、理解はできなくともとにかく情報を詰め込んでいくと、あるとき、ふと壁を越えていく感覚も、違った意味で脳に対するアプローチである。

好ましくない例えでは、戦争だとかで民衆の扇動も同じだろうし、マスメディアの大部分も当てはまる。
とにかく、情報の提供側に身を置くということは、組織や社会に対する責任を持つということだ。
考える隙を与えず、刺激を継続すると洗脳されてしまうのだろう。
だからやっぱり、情報を受ける側は、スッと力を抜いてひと息つく時間は重要なのだ。

今の自分の原動力の一つは、より良く、より健全にあって欲しい! というもので、その願いの元、ネットワークシステム構築はサラリー上では責任のない仕事であるし、ほかにも無償ボランティアをやっている。
その自由が許されている以上、現時点ではそれほど間違っていない方向性なのだと理解している。

「より良く、より健全に」という気持ちが強いのは、これまでの旧世代ヒエラルキーの名残に対する、自分なりの実際的な対応策であり、まさしく「今」が実社会の転換期なのだろうという目測故だ。
最近の自分のエントリーにもつながる話なのだが、不健全な仕組みを組み立て直すには、まずは民主性やグローバリズムを利用して合理的手法で整理整頓、掃除を行い、そのあとに各々の個性を活かしつつ全体の調和を図るのだ。
……なんてことを夢見てしまう。

実際は、いくらでもその自分勝手な責任感を放棄することもできるのだが、なかなかどうして、何故だか理由もよくわからないけれども、同じような視点を持ち得ている、同じような立場の方を見かけたことがなく、そのような方が実際に存在するのであれば、今すぐにでもこのわけのわからない独りよがりな責任感を喜んで転嫁するくらいの心持だ。

最近はそんな日日。

※写真は昨日の釣行にて。チャコールで鱒顔の美しいイワナ。ひと息つくために趣味はとても良いです。

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