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誰でも魂は輝いているのかもしれないと思った日常生活での出来事

友人はいつもこんな風に言うんだ。

「どんな人の魂も素晴らしいんだよ」って。

彼と知り合ってもう10年以上経つけれども、その人それぞれの魂の姿なんて見えたことのない自分に、その言葉が腑に落ちたことは一度もない。

でも今日、「彼が言っていることは本当かも知れない」と思ったのは自分でも意外だった。

思うに、コミュニケーションがうまくいかないケースというのは、ひとつは(以前のエントリー:いじめや同調圧力とは生き残りをかけた「異物排除」という極めて本能的な反応であるに通ずる話になるが)「生き残るための手段」として本能のままに相手を(そうとは気付かず)威嚇して優位性を保とうとする場合や、(
自分が組織やコミュニティで生き延びるために)損得勘定でしかモノゴトを判断しない場合だ。得だと思えば愛想が良くなり、価値がないと思えば視界にも入らない。

もうひとつは、精神的に「大人」になれていない場合。個人的な考えだが、誰しも人生のある時期まではいわゆる広汎性発達障害を抱えているのだと思う。「大人になればわかること」が、大人になってもわからない人とのコミュニケーションはどこまでも平行線。先のケースと同じなのは、やはり生き抜くための本能が判断基準になっているところだ。

より本能的な判断基準とは肉体的な生死、生活界隈での社会的な生死であり、0か1のどちらかという、極めて合理的で単純明快な解答なのだ。

今日のケースは後者で、大人になりきれていない人との会話の中、経験上から諭そうとする自分と、あくまでも理想の追求のために、頑なに案を推しつづける相手。自分の横にはもう一人、相手を諫めようとする人間がいたが、相手はまったく引かない。以前からその相手のことを広汎性発達障害の類いだと感じていたが、今日はその青さに自分が折れてしまった。

話は変わるが、青い春と書く「青春」とは精神的に未発達であるが故に得ることができる時代である。そのときのモノゴトの理解でしか感じられない時間なのだ。理解が得られたのちの自分では絶対に過ごすことができないからこそ、懐かしく思い返すことでしか浸れない。「仲間」という言葉も同類である。

今回は、本能的にしか生きていないのだろうと決めつけていた人間が、実際は情熱を持ってモノゴトをより良くしたいという気持ちを不器用にしか表現できないその青さに、気持ちよく負けたのである。

こどもがそうであるように、未発達であるほどに魂の姿は露出しやすいのかも知れない。しかし理解や愛情を得ることができず、本能としての単純明快な合理性を基準とした、ある意味ネグレクトのような人生を辿ってしまえば、損得でしかモノゴトを判断できない人間になるのだろうと思い至った。

生きるための本能に従うだけでなく、魂を磨き、輝かせることが人生なのだと、反対に諭された気がした。


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