カオスに芽吹く可能性に嬉しくなる
民主的な在り方とトップダウンがうまく組み合わされたかたちがきっと、
各人の良心に従うことだろうと思います。
トップ=心ということですね。
本業の傍ら組織のシステム構築に携わるようになってちょうど20年。
今でこそ自分にとって当たり前の話になりましたが、情報の共有がもたらす一体感や意識レベルの底上げを実感しました。
のち、組織の中で良心以外が根拠となった選択がなされ、その部分の修正がうまくいかない場合、その歪はやがて、その時々で一つの終焉をもたらしたように思いました。
個人的には、2018年ころからスポーツ界での不祥事がメディアで取り上げられたあたりから流れが変わり始めたなと思います。
特徴的なのは、それまでは常識であったことが非難され始めたということですよね。
現文明において、情報の共有の最たるかたちがスマホとインターネットによる、もっとも細分化された情報共有と情報発信となりました。が……
ただ、この数年は、どこのだれだかもわからないような一人のつぶやき情報発信が市民権を持ちすぎたのだと思います。
膿み出しは必要ですが、そこに便乗するのは良心のなせる業ではない。
ちいさな声が世界を変えてしまうような現象は、これまでの抑圧されすぎていた世界から不健全なトップが取り除かれた反動なのだろうと思っています。
世界の自浄作用として反対側へ大きく振れた結果が、行き過ぎたちいさなつぶやきたちなのだろうと思います。
各種ハラスメントで訴えられることを恐れすぎていることもその範疇でしょう。
――最近は日常の中で、確実に次世代が育ってきているのだなぁと思うことがあります。
世界が大きく揺さぶられている中で、確実に芽が出ている。
そんな新しい可能性がもたらしているのは、良い意味での混沌であって、そのカオスな空気になんだかおかしくなることもあるのですが、笑みを浮かべるような場面ではないことも多く、深刻な表情をつくりながら、内心では喜んでいたりします。
私としては「時を得たり!」ということであって欲しい(笑)
ただ上記の如く、世情としては確実にカオスなので苦労もあるのですがその分やりがいのようなものもなくはないのです。
まぁ、もうベテラン世代に分類されるので若いころほどにはパワーは出てきませんが、無理なく言動を起こせることは年の功だなと思います。
ここで初めに戻りますが、民主的であることと統率の取れたヒエラルキーがうまくバランスするためには、魂とも呼べる各々の良心を頂点として、個性的なその哲学、美学を表現しつつ、各人の内面に敬意を払いながら調和することが良いのでしょうね。
人間関係の中で利己的であったり、排他的であることの根本的な理由はきっと、内面の成長の度合いでしかなく、わが子の成長を辛抱強く見守ることと同様に、必要に応じた言葉や距離を提供すればそれで良いのだと思います。
実際の日日はそんなに甘っちょろくもないのですが、少なくとも後悔はないので、たまの暴言や失言の度合いも許容範囲内の誤差なのでしょう。
※写真は先日のツーリング@標高1200メートルからの景色
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