本気の夏休み
一瞬で梅雨が過ぎ、茹だるような暑さにへろへろになっていたところでまた梅雨がやってきた。
人間が天気に対してあまりに文句を垂れるもんだから、地球も気を遣って今年は 体験版[梅雨]を設けてみたつもりだったのだろう。そういうのはきちんとアナウンスしてほしい。有料版[梅雨]が来た時に、悲劇の梅雨リバイバルという気分にならざるを得なくなってしまうから。
それでは本編にうつります。
いま直面する「夏休み」警鐘
全国の小学生たちがソワソワしだす今日この頃。
指折り数えるのは、そう、
夏休みというビックイベント。
中には夏休みの宿題一覧表が配られるや否や、また突入前だというのに交通安全俳句を考え出す者もいる。
そして1学期の最終日、声高に俳句を披露するなどして夏休みの自由を獲得したことを周りに知らしめる。
しかしながら、私の6年の経験によるとそういう輩に限ってマリオカートよろしくエンストする。そして楽しみにしていた家族旅行前に熱を出したりするもんだ。
ともあれ小学生が夏休みという存在にかける想いは計り知れないものがある。時に、社会の歯車になってしまってからその尊さに気付くことがある。
先日、わたしは近所で行われているラジオ体操に参加してみた。涼しくも蒸した早朝6:30から、老人たちとともにラジオの声に健やかな胸を開いていると、懐かしき小学生時代の記憶がよみがえってきた。
ラジオ体操の皆勤賞でもらった45Lのゴミ袋。
いつまでも決まらない自由研究。
新聞紙を敷き並べて四つ切り用紙に描いたスイカ。
飽きて新聞に載ってる偉い人の顔に落書きしたりしたもんだなぁ。
うかつにも目頭が熱くなってきた。
このままではいけない。大人たるもの、小学生が口をあんぐりと開けてしまうほどの圧倒的大差で夏休みを満喫しなければ。
あの頃と比べて、成長したのが体の大きさだけでないことを示そうではないか。夏休みがないなら、作れば良い。小学生よりも短期間かつハイレベルに夏休みを楽しむことができなければ、歳を重ねた意味がない。
「子どもは夏休みがあっていいなぁ」なんて呆けたことを口にして僻む暇があるならば、真っ向から義務教育期間中の彼等に挑む。これが我々に課せられた義務である。
本気の夏休み 【その1】
自由研究の歴史
まず手始めに、自由研究を行うことにする。
調べたところによると、そのむかし自由研究はひとつの教科として教育に取り入れられていたようだ。知らなかった。
教科としてはわずか4年で終わってしまった自由研究。しかし今でも夏休みの手強い敵として健在な様子を見ると、教育的意義のあることは間違いない。
本夏休みにおける目標
昔から、自由研究というと圧倒的に理科に関連するものが多い。文部科学省が実施している自由研究のコンクールもタイトルが『自然科学観察コンクール』となっており、募集要項は下記の通りだ。
しかし、教科「自由研究」の発足にあたっては、なにも自然科学に絞ったものが目的とされていたわけではなかったようだ。
文部科学省のHPに掲載されている学校教育の歴史に関する文書を見ると、教科「自由研究」設立の意図は次のように書かれてる。
教科「自由研究」発足時の方が、現在よりも広義で目的意識の高いものであるように思われる。そのため本夏休みでは、自由研究の発足に立ち返り、「興味と能力」を遺憾なく発揮することを目標とした。
課題設定
個人的に、自由研究の性質は下記の2つに分けられると考える。
身近なふしぎを解決する
身近なモノをもっとよく知る
1は、「なぜ○○は△△なのか?」という疑問から生じる研究であり、Q&A方式で解答ができる。
一方2は「○○について深く知りたい」という知的探究心から生じる研究であり、どこまで行っても「事実」があるのみ。底なしである。
ちなみに私は小学生時代、
ストップウォッチ片手に自転車で学区域中の信号を周り、青の時間を調べる
雪平鍋に入れた海水と食塩水をそれぞれひたすら煮沸して温度変化と精製物を調べる
という2つの実験をした。
どちらも2に当てはまる研究であり、結果を見ても「ふーん」で終わった記憶がある。
しかし、本夏休みの研究もまた、2を選んだ。
なぜなら、2の実験の方が結論までのアプローチ方法が多様であり、かつ、先程申したように「ふーん」で終わるようなだからといってどうということはない結果が出やすい。
大人として、力技で小学生を負かして正論を叩き出し、有頂天になるようなことはしたくない。それって何の意味があるの?と責められて「とくに意味はない」と答えるくらいの余裕を見せるほうが大人ってもんだ。
というわけで、まずは「身近」代表のコンビニエンスストアに赴き、研究対象を探した。
この先は長くなるので、続きはまた今度。
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