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最後の言い訳。

家を出ようかなと本格的に考え始めたのは、今年に入ってからだった。仲良い人が東京にたくさんいたし、そしてその人たちのほとんどに「遠いから」という理由でなかなか会えずにいた。問題となっていたのは時間ではなくお金で、近くにいれば公園で缶ビールを飲んだり、ちょっと30分だけ会おうよってことができるのにな、と常々思っていた。


周りにもたびたび「どうして26年間も毒親の元から離れずにいるの?」と尋ねられてきた。私のことを思って、離れた方が良いよと言ってくれていることは分かっていた。だけどその度に、私は自分を責められているように感じ、ますます身動きが取れなくなった。ここに、長い言い訳を残させてほしい。遠い未来、私がこれを読んだ時に「どの時点の私も間違っていなかった」と思えるように。


私が家を出なかった理由は大きく分けて3つある。

①母を幸せにできなかったという自責の念
②「家を出たい」と言った時に起こるに違いない母の癇癪への恐怖
③私がいなくなると母に味方がいなくなるから


ご存知の方はご存知の通り、私の両親は教科書通りの毒親です。若くして家族と縁を切ったせいかアダルトチルドレン丸出しのそこそこ顔の良い男と、お嬢様育ちの途中で父親が人に騙され多額の借金を肩代わりするはめになり心中しかけたそこそこ顔の良い女の間に、どっちに似たんだかよく分からん私が産まれた。


母からは小学5年まで身体的な暴力、それから今に至るまでは言葉の暴力を受けて育った。父は私が物心ついてからずっと単身赴任で、一緒に暮らした記憶はない。フラッシュバックと夜のトラウマは今も色褪せず、私はドラマや映画もろくに見られないし、夜遅くに帰宅した時の、暗がりに浮かぶ人の気配で震えてしまうのも治らない。


一度、母に「子どもを虐待した人間は他の行いがどれだけ優れていてもろくな死に方をしない」と言ったことがある。その時、母は「そんな何年も前のことを」と言った。された側は忘れたくても忘れられないのに、した側は簡単に忘れるし無かったことにできるんだなと思った。


矛盾しているように思われるかもしれないが、私は意地でも母を幸せにしたかった。姉と父が家を出て行き、残された私と母は壮絶な暮らしを共にした。お金がないという事実はその事実の印象以上に人の心を蝕む。多額の借金と抵当権を抹消できない馬鹿デカくてボロい家を背負い、借金を返すために別のカード会社から借金を無限ループ、母の親友で私にとっても実の母同然だった人が勉強不足の愚かな町医者のミスである日突然亡くなり、私の夢の中に泣きながら出てきた祖母がその日の朝リビングでひとり急死した。生きてても良いことなんか何一つなかった。言葉にすることも憚られるような、書けないようなこともたくさんあった。


だから、私を痛めつけ続けた母に対しても「この女をこのままで死なせないぞ」って気持ちは幼い時からずっとあった。


では、「母にとっての幸せ」とは何か。それは紛れもなく「私が夢を叶える姿を見ること」だった。


仕事を探す時も「どうしたら母の喜んだ顔が見れるか」を軸にしていた。やりたいことを見つけ、ものすごく勇気を出して母に伝えて(その時も癇癪を起こすかと思って怯えていた)、母がそれを受け入れ、ましてや応援してくれた時、私は生まれて初めて母から認められた気がした。


自分で自分のことを「頑張ってる」と言うことは私の美学に反するんだけど、それでも私は文字通り、死に物狂いで頑張った。あれ以上頑張ることは今後ないと思う。息が止まるほど緊張したことも、寝るのを惜しんでエントリーシートを推敲したことも、ローンを組んで就活のスクールに通い、毎回どこかしらのタイミングでトイレで泣いてしまうくらいビシバシ鍛えられたことも、全部ハッキリ覚えている。


それでも報われなかった。努力が報われなかったショックと母への申し訳なさと、最後の希望を失った絶望感で私は何も手につかなくなった。最後のチャンスだった本命企業の選考は途中まで進んでいたがコロナで中止になった。途中まで進むことができて光栄だった。悔しいと思えるほどの気力は残っていなかった。やり切ったと胸を張って言えるほどやり切っていた。エントリーシートが通過したことも、途中の面接まで進めたことも、今までの努力が少しだけ実を結んだ気がした。それだけが救いだと思う。


やりたいこともなくなった頃、こちらもコロナの影響で父が週一回ほどのペースで自宅に帰るようになってから家庭内がますます険悪になった。怒号が飛び交い、姉は小学生女児のような典型的なやり方で母を虐め、母は父からよく分からないことで執拗に責められビクビク生活し(私にしたことが自分に返ってきてると思う)、それを見ている私は母に酷いことをする父と顔を合わせるだけで具合が悪くなるというとんでも家族になった。


もう潮時だなと思った。誰が悪いとかじゃなくて。確かに母はすぐに癇癪を起こすし、ゆっくりじゃないと物事を考えたり判断を下したりできないし、それを少しでも急かしたり周りが焦ってる感じを察知するともう『ダメ』だし、浪費癖が凄くて毎月どこに消えたか分からない生活費は消息不明のままだし、一度暴れ出したら手をつけられないけれど、母だって好きでそんな風なわけじゃないことは一緒に暮らしてきた私にしか分からない。姉も父も「あいつは頭がおかしいけどぬんが面倒見てるから」で済ませてきたから楽で良いよなと思う。


私は母をなんとかしたかった。自分と同じように、「生きてても何も良いことはない」と本気で思っている母に「生きてきて良かった」と思ってほしかった。そう思わせることが出来るのは自分しかいないと信じていた。今も。


今までの私にはそれを成し遂げられなかった。だけどそれはきっと一生じゃない。離れるなら今だと思った。そう思うまでに26年も費やしてしまった。思わせてくれたのは周りの人達だった。私は私のことを少しも許せていないし、こうしている今だって巨大な罪悪感で内側から破裂しそうになっているけど、もし近い未来に安心して眠れる夜が訪れるなら、その夜がやっと私の人生の始まりなんだと思う。その先でいつか母と普通に話せる時が来たら初めて「間違っていなかった」と思えるんだろう。

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