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あれから先の今の話。

私のツイートやnoteを以前から見てくださっている方はご存じかと思いますが、今たまたまこれを目にしてくださってる方に簡単に説明すると私はいわゆる『毒親』のもとで育ちました。心身ともに暴力を受け、大人になってからも母親という生き物に縛られ続け、今年の夏にとうとう完全に精神がいかれてしまいました。詳しくは過去の無料noteにぽつぽつと書いたりしているので割愛します。

そんな母と離れて暮らすようになってから早3カ月半。今日は母が東京に日帰りで遊びに来た。私がいなくなって、さみしくて退屈で会いたいはずだと思って呼んだ。彼女は飛行機が好きなので、飛行機に乗るだけでも喜ぶだろうと思った。

こちらも連日ツイートなどで零しているが今、私は仕事がかなりきつい。体力的にも精神的にも、相当追い込まれてしまっている。休日の今日も気持ちは重く、私は何かあるとすぐ胃がダメになるので胃がねじれるほど痛い状態で母を迎えに行った。

母は自分で何も決められない。今までは私が母の言葉に出来ない意向や先のことを見越して何もかも決めてきた。久しぶりに会っても相変わらずだった。どこか行きたいところある?今なにが食べたい?と聞いても「なんでもいいよ~」ばかりで、ほのかな悲しみと狼狽に懐かしささえ覚えた。

母は物事の良し悪しや判断もつかない。倫理観も欠如している。そんな言葉を聞いたり制御するだけでも参るのに、平気で人前でもそういうことを言う。電車の中で「人もご飯も、東京は良くないね!」と思慮のない言葉の矢を放った時も、お願いだから、と心の中で懇願した。その一方で私は切に母に喜んでほしかった。どんな形であっても。

とはいえ母は終始嬉しそうだった。母は私のことが好きだ。それは当然のことだと思う。父も姉も母に対してあまりにも冷たい。15年以上も前からそうだった。私だけがずっと母のもとから離れず、母のためにという思いだけで生きてきて、精神を病み胃をぐちゃぐちゃに壊した。

母は私のことを「いつも人に気を遣って自分のことを犠牲にして、ごめんね」と言う。姉は「誰にでも優しすぎる、ぬんちゃんは本当にいい子」と言う。そうしようと思ってそうしてきたわけではない。もとからそういう気質なのだろう。そんな私を、他の家族には伝わらない言葉を理解しようと努める私のことを、母が嫌いになるわけはなかった。

今日の母はよくしゃべった。私がいなくなってからも外に出て自分なりに楽しみを見つけたり、家族以外の人と交流を深めたりしていると聞いて、私は安堵した。これで良かったと思う反面、何かとんでもない間違いを犯しているのではないかという自責は常にあった。しかし私がいなくてもそれなりに楽しく過ごせていると知って、良かったねと素直に思った。

その反面、やはりあまりにも何も自分で決められないし、失言が多いし、私の質問にきちんと答えが返ってくることはほとんどなく、辟易して思わず強めに指摘して、言ったところで何かが変わるわけではないことも、母自身が言われたように”ちゃんと”したいのにできないもどかしさも分かっているので、結局私は強い語気で返した自分の言葉を悔やみ責めた。こんなことが今まで何十年も、毎日起こっていたのだから崩壊して然るべきと思った。

その後も私は母をあらゆる店に連れていき、色とりどりの景色を見せ、話を聞いたり聞かせたりした。ずっと何かが心に引っかかっていた。それは、仕事に追い込まれていたここ最近ずっと、密かに付き纏っていたもののようにも思う。母は休憩にコーヒーを飲みたいと言った。もともとコーヒーを好まなかった母は、私が母のリハビリの一環としてコーヒー屋に連れ回していた日々の中でまんまとコーヒーを好きになってしまった。

店に着き、荷物を下ろして注文をし、コーヒーが届くのを待つ私に母は「戻りたいでしょう」と言った。

私はその言葉の意味を、その重さや形そのままに理解することが出来た。そして同時に分かった。私は、並々ならぬ心残りはあるけれどコーヒーの世界に戻りたいわけではなく、今年の春に諦めたはずの長年の夢への憧憬と未練を知らぬうちに膨らませていた。知らぬうちに、と言っても当然そんなわけはなくて、見ないふりをしていたものにやっと気が付いたと言えるきっかけを探していたのかもしれない。そして母の放ったこの一言こそがそのきっかけになったんだと思う。

人が喜ぶ姿を見て自分の喜びに変えてきた。その最高峰と言えるものが母の存在だった。今まで幾度となく繰り返してきたが、私は母に「生きてきて良かった」と思ってほしかった。今まさに私が東京での生活の日々でそう感じているように。

ケーキ屋さん、本屋さん、警察官、作家、教師、俳優、バリスタ、カメラマン、翻訳家、デザイナー、歌人、ネイリスト、建築家。何かを目指し、そのために泥水を飲む覚悟ですべてを捧げることの尊さ。難しさ。諦める必要は、本当にあっただろうか?と思った。やり切ったと言えるくらい、自分に出来ることは何でもした。しかしそれは本当に「納得している」とは言えるだろうか。

私はまさかコーヒーではなくクリームソーダを注文し嬉々としている母の姿を見ながら、うっすらとではあるが自分がもう二度と母と同じ家で暮らすことはないだろうということを悟っていた。つい数か月前に会った母は見る見る年を取り、本当に小さいと思えることにもいちいち歓喜した。

例えば私が生涯で母に会える回数がもうすでに決まっているとして、その一回一回ごとに小さな喜びを与えることはきっと可能だろう。しかしそれは最善と呼ぶには程遠く、こんな、苦しくて苦しくてそれがしたくてしているわけではない仕事に一日12時間以上費やしている場合ではないのではないか。経験値という観点では何事にも意味はあるが、この環境で学べることはすでに吸い尽くしたのではないか。

エスプレッソのレジェンドである田中勝幸さんは「人生は自分の才能を見つけるためにある」と仰っていたが、このまま今と同じ仕事や生活をいくら積み重ねたって、自分にしか出来ないことを見つけられるわけなんてないことは明白だった。

一瞬でそんなことに思いを巡らせた私は母に「やっぱりもう一回勉強して、お金と時間と労力はかかるけど全部最初からやり直そうかな~」と言った。母はそれだけで目を輝かせた。母の夢は他でもない私が夢を叶える姿を見ることだった。母は、親ばかだけど、と前置きをしたうえで「ぬんちゃんを待っている人はたくさんいると思う」と言った。私も同感だった。

とはいえ行動を起こすのも環境を変えるのも簡単ではない。頑張るなんて言葉に意味を持たせようとするほど私ももう若くないし純粋でもない。そんなのはただの前提に過ぎず、満足した一日を生きるだけで相当頑張らなければいけないことを知っている。

それでも。ちっとも楽しくもやりがいもない、涙なしでは突破できないようなことよりも、自分のやりたいことに向かって涙が出るくらい頑張って、挫折や落胆の繰り返しだとしてもそっちの方が絶対良いよなと思った。正しさだけを求めているわけではないけれど、出来るなら正しい頑張り方をしていたい。先ほど母から、今日買ったカステラが美味しくてさみしいとメールが来て、私は革命を起こすことにした。

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