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学びの記録としての心境

ここのところ、JACIMでの『奇跡講座』の学びに集中している。

つまり、JACIMサイト内の解説を読んだり、加藤美代子さんの主宰するJACIMバーチャルフォーラムの中で、定期的に(出来るだけ毎日)、同じように学んでいる皆さんの体験のシェアを読むことや、ケネスワプニク博士の解説や書籍、質疑応答などの要約をする課題に取り組むことを続けている。

他の(自称・他称問わず)『奇跡講座』ティーチャーの皆さんの教えには、敢えて、触れていない。

正直なところ、これで、こんなに効果が出るものなのか?と思って、とても驚いている。

日常生活を振り返って見ると、確かに、結果的に、行動レベルでは、より、柔和なレッスンとなって、他者の中に寛容さや、優しさ、利害を超えた親切さを見ることが多くなっている。

また、私は、仏教徒の両親、祖父母の影響か、最近流行りの転生ものの影響か、理由はわからないけれど、目の前の憎たらしく思う相手を、いよいよ赦していくプロセスの時の中で、感覚的に前世での記憶が走馬灯のようにフラッシュバックして、死を望み、お望み通りに死を持って償っていくような罪悪感を一瞬、しっかりと経験するような、または、他者の命を犠牲にして、生き残ってしまったことなどなどのかなりドロドロとした怪談モノか、愛憎モノか、悲劇のヒロインとしての私的であり、個人的である、心の傷に到っしながら、同時に、全ての輪廻転生内の映像が全て一瞬にして報われるかのような夢を見るタイプで、愛の反映を、象徴として他者の中の聖性、利害を超えた思いやりの表情として見ることが多い。

最近「葬送のフリーレン」というアニメがお気に入りで、寝る前に、ずっと見ていた。

気づけば、主人公であるフリーレンに自己を投影してみている私は、彼女と同じように、少しずつ、過去の出来事を今に統合しながら、ありのままに見れるようになっていくプロセスの中にいる。

愛は失われていなかったのに、拒絶したのは私の方だったこと。

気づけば、愛の反映は、今も、そこかしこに、もちろん、ここにも、あること。

遠廻りに見える最短距離の王道を歩いていこう。



【備考】


ただ、何を赦したから、何が起きているのか?その関連性は、私にはわからない。聖霊のみの機能であり、私たちが知る必要のない範囲と云われる所以なのだろうが、、、知りたくは、ある。

そこを考えている時点で、また、自分自身で、自分の今の霊的な立ち位置を知りたくなって、知る必要のないこと、霊的な道を行くには全く関係ないことに想いを馳せてみて、それを知っているような説明をしている他者の説明を求めて、他者と比べて、まだまだだ、、、と落ち込みたくて、あるいは、まぁまぁだ、そこそこだ、、、結構いい線いってるじゃん、と、納得したくて、今の状況に対して、仮初めの安堵をしたくて、霊的な成長具合を、自らのモノサシで測り、判断することで、一喜一憂していたい、という、既に自我どっぷりである。

ところが、そんな自分自身を、ありのまま受け入れられるまで赦していくと、自我を愛するような感覚になって、不思議なことに、他者からも優しくされる(他者からの優しさを100%実感できる)という体験をしている。

今まで、絶対!許せない!と思っていたような行動に対して、しょうがないなぁ、、、可愛いヤツめ、、、ほんと、、、馬鹿ね、、、って、今、一瞬、どれだけ優しく寛容な、どこからの視点で達観してた?私、今までは、ここ、理屈じゃなく、反射的に怒るところじゃなかったっけ?優しくない?なに?今、私、温かな気持ちで、ただただ、感謝してるの?ってことも、たまーにだが、以前より、あるようになってきた。

ただ、まだまだ、反動形成が起きて、早く癒されたい!と思う時は、まさに抵抗の抑圧かもしれないと思う。


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