自我は真空を嫌う。聖霊は真空を安らかな微笑みを浮かべて、ただ、見る。
『奇跡講座』実践者のSakieです。
かなり前から、『真空』の状態についての[恐れ]
をテーマに考察していました。
やっと、ひとつの答えがある、私が私に納得いく
例えと共にカミングアップしてきましたから
シェアします。
内側を見ていく、つまり
自我を直視していく
[恐れ]については、かなり語られていますが、
自我が真空を嫌うことについては
あまり重要なテーマとして扱われていないと
思います。
ですが、東洋思想をお持ちのアジア圏の方ならば
[空]という概念と
その概念への憧れ、、、
つまり、
何ものにも執着がないこと、
全ての物、事への思い入れを手放すこと、
外界に対して、一切の承認を必要としないこと
に対して
潔さや
一種の美しさを感じて
自分なりの哲学
をお持ちの方は多いのではないか?と思います。
それは、形態によっては
物理的な私的な所有物を持たないことに至る
全捨離、断捨離までブームになるほど
禅の思想に代表されることとしてだけでなく
動作性、機能性、考え方に至るまで
削ぎ落とす美しさ
シンプルイズザベスト(Simple is the best)
を徹底している方をメンターにして
昨今ではかっこいいこととして形骸化して
物を売る、事を売るブームさえ
あるように思います。
『奇跡講座』で扱う「真空」の状態は
それとは違います。
徹底して原因である一なる心についての
無意識のレベルでのことを
言っています。
つまり、恐れや不安、罪悪感が無い状態、、、
自我は、そんなのつまらない!だろう?
そんなの退屈!だろう?
そんなの楽しくない!面白くない!と言います。
ですが、本当にそうでしょうか?
安定していて明日も来るはずの恒常的な幸せや
自由なんて
望んでいないこと
自分には合っていない
身の丈に合っていない
など、様々な言い訳をして
今既に持っているもの=赦しの実践という
万能のマスターキーを使わずに
活用せずに
不安感を得たいという
ギリギリで生きていたい
リスキーでハラハラヒリヒリしていたい
という
自我の力動=
(原初の瞬間に)自分で望んで自分に仕掛けていた
罠を、私は、身に沁みて
実感しています。
そう、今こそ!
そこで、そんなものだと終わらせておかずに
ワーク!
今日も、「赦しの実践」です。
自我に力を与えない
価値を置かない=聖霊の心眼で見るために
自我に力を与えていること
価値を置いていること
深刻になっていることを直視します。
「真空」の先には
恐れではなく
愛の現存がみえる場所があるのにも関わらず
また、私、これ(出来事)を“自ら望んで”
「自我の思考体系」を使って見て
「動揺してる、ざわついている。また、やってるな」
とわかると思います。
「真空」を望むことも、出来る。
やっと、選び直すことも(選び直さないことも)
自由自在の
決断の主体の空席に戻りました。
ある意味では私たちは、真に自由です。
再度、自我の思考体系を選び
見る事も可能なので、何ものにも
心の平安を奪われることなどあり得ない
左右されない
立ち位置にいます。
「実相世界」から
相手からの思いやりに触れること
相手からの最善だったと見ること
そして
真には
愛の現存に触れること
まで、望むのなら、自分で、意図的に、出来ます。
これが、奇跡です。
意図的に奇跡を起こすことが出来る状態まで
熟達してマスターしたならば
これ(『奇跡講座』という教本)は必要なくなる、
とは、そういうことです。
ここ(決断の主体に戻っている状態)でやっと
また、真に
「愛を表現していく」ことが可能となります。
ただ、それは、起こることが起こっていく中で
具体的な行動、言動については
何も言及されていないということには
注意を払っていてください。
様々な私的な所有物(だと思っているもの)を使って
私たちは条件付きの特別な愛を差し出すのか?
それとも
利害を超えた無条件の愛を差し出すのか?
心のレベルでは選べる、ともいえます。
(それが、行動のレベルに置いて
具体的なことは
何もしないことや
行動レベルで制限をかけることが
愛の表現の場合もあります)
そして、原因のレベルで
自分で自分に教えたように
自分が実践したように
他者に、教えているということです。
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