「フットワークが軽率で軽薄」で書いたRRR感想文 再録

 2022年12月31日(金)東ヒ41bにて頒布したエッセイ本のRRR感想部分の再録になります。RRR本編のネタバレをしています。


(まえがき)本章の執筆に当たりましては、一緒にRRRの沼、いや、誓いの川へと勢いよくダイブしてくれたフォロワーさんたちから、多大なる言葉、インスピレーションを頂きました。あなたたちは立派な武器です(クソデカ呪いの言葉)。

 RRRを観に行った。観に行く前からとにかく色々がドラマティックだったし、観に行った後もすごかったので、その顛末と、ついでに私のクソデカ感情感想をしたためようと思う。感想部分は全力でネタバレをしており、観た方ではないとご理解頂けない内容であるのでご了承頂きたい。
 さてTwitterの私のタイムラインにはだいたい狂人しかいない。彼ら彼女らくるんちゅ(以下、「彼ら」という)は、ある日唐突に推しが生まれ、タイムラインで狂い、舞う。ラブストーリーは突然に訪れるのだから仕方がない。人類の歴史とはめくるめく愛との出会いの歴史なのだろうと思っている。
 まあそういうわけで、ある日タイムラインを見たらフォロワーのひとりが話題のインド映画に狂っていた。極めてよくあることである。極めてよくあることであり、フォロワーさんらと私は、趣味嗜好はそれなりに共通することが多いため、それで私自身が興味を抱くことも極めてよくある。
 しかし、私には私の人生があり、私の推しがいるので、興味を抱いたからといってそれを全て履修をするわけではない。彼らが、ネットであるいはリアルで踊り狂う様相を拝み、そこから栄養を得るのみのことも多い。推しに狂う人間から出る成分には栄養が豊富に含まれると言われている。
 だから、その時点で私はまだRRRを絶対に観に行こうとは思っていなかった。あの監督のあの、あの有名な過去作品であるバーフバリがあり、私はバーフバリも当然大好きであることから機会があれば是非見ようと思っていた。しかし、現代日本における洪水のようなエンターテイメントの供給のなかで、映画を観に行くということは私にとって割とハードルが高い。おまえ今年映画館何回行ったかと問われるとそもそもRRRとシン・ウルトラマンだけで20回弱はくだらないのでハードルとは何かという話にはなるのであるが、まあまず、私の街には映画館がない。逗子には映画館がないのだ。細かいことを言えば、ミニシアターはあり、そこでは封切り日も出演者もスタッフも何もかも私が知らない映画を、何時だかよく分からない時間に、誰に向けてすら分からないまま上映している。割とおいしそうな食堂も併設されている。しかし入ったことがない。逗子の映画館はそれのみである。シネコンは京急逗子線の関を超えることができなかった。

 そのまま多忙で少し不便な日常に溺れていたとある日、私はスピッツのファンクラブイベントを控え、仕事を早退して会場である横浜へ向かっていた。既にラッシュの気配が漂い始め、立つ乗客も多い電車に揺られながら、今日の席はどの辺りになるだろう、セットリストに私の投票した曲は入っているかな、いや絶対それはないな、などと自分とスピッツというバンドの爛れきった関係性に思いを馳せていた。そんな時だった、とあるフォロワーからグループLINEが届いた。そのLINE自体は私の地元に関するもので、ああ逗子って遠いんですよねという話で終わるかに思われたのだったが、そこに突然神託が降りた。そもそも私たちのグループLINEもグループDMも会話が始まるといつだってそれはもう盛大にとっ散らかる。何だって起こる。だからフォロワーが神から宣託を持ってくることだってある。

「曰く『RRR観ろ』」。

 これは宣託であるので敬語などはない。神は死んだし敬語も死んだ。人類の歴史は神との別れの歴史だ。オタクはいつだって情緒が狂うに任せてそうやって主語を壮大にしすぎるところがある。主語だけではないしFacebookも5億年は開いていないところをもって悠久の時の流れに身を任せたがるところだってある。大いなる存在を常に崇めている民、それがオタクである。ここまで主語は広めに確保したが、しかしまあおそらく私だけだとも思う。慎ましく生きているタイプのオタクには本当に申し訳ないと思う。これ以上は歌詞にできないと草野マサムネ神が絞り出したあの日よりも前から、私は世界を大袈裟に熱っぽく語って、ロックンロールの微熱の中をただ走っていたいのだ。その日のライブで私の投票した曲はめでたく演奏された。
 話をLINEに戻す。ひたすらに気怠いだけの木曜日の夕方に、突然降りてきた神の言葉に私たちは瞠目した。神の使者は続けた。IMAX上映が今日までであり、民草はその洗礼を受けなければならないということであった。
 なんということだろう。私は今まさに別の神との集会に向かっているところなのだ。日本には八百万の神がいるしオタクにも八百万の神がいるし、スピッツのファンクラブイベントは4年ぶりだった。もし、その日、いつものように仕事をしていたならば、私は神託を受けた次の瞬間には「なんそれ行く(「なんだって!今日でIMAXが終了とかそれは今初めて聞いたわ神託に心から感謝するわ脊髄でチケット取った、行く」の略)」と返事をしていただろう。そして概ね似たような気持ちになったであろうもう一人は、僅かに残るIMAX最終日上映の座席に逗子から滑り込んで行った。逗子から遠く離れた彼女の自宅は神の国には近かった。なお、その日その上映で僅かに空いていた座席は2列目だった。IMAXスクリーンの2列目に彼女は飛び込んでいった。ちなみにその日、私がスピッツのライブ会場で発券した座席もアリーナ2列目であった。2列目。自分が生まれて思いやりを覚えてから30年以上積んできた徳という徳の全てが蒸発する音を私はその日聞いた。それはチケットの印字音と似ていた、いや、チケットの印字音だった。
 そして桜木町で私の徳が目の前数メートルに迫るところでキラキラして弾けている頃、IMAXシアター2列目でRRR初見の洗礼を浴びているフォロワーの目の前には、凄まじい熱量が渦巻いていたそうだ。IMAXの画質と音の暴力のなかで視界全面の色々ななにかすごいものが踊っていたそうである。
 私は横浜のホールでキラキラして散った徳の積み直しが始まったので、さっそくみなとみらい駅の夜間入り口が分からず、ぴあアリーナから桜木町駅まで以上の距離を歩き、終電間際の電車で逗子に帰った。東京から横浜は想像よりも近いけれど、横浜から逗子は遠い。横浜から逗子が遠すぎて悲しかったので、私は予定の入っていなかった日曜日、ついにRRRのチケットを買った。事前情報はあえて何も入れなかった。

 ここからやっと本編の感想に入る。ネタバレの話しかしないので、ここからは映画を観ていない人は読まないでほしいし、多分映画を観ていないと面白くもないと思う。
 それから断っておきたいのは、私は結構インド映画に対する解像度は低い奴である。バーフバリは多分通して2~3回ほどしか観ていないし(それなりに観ている。サントラは買った)、その後インドの映画を追っていたということもなければ、今回でインドの映画についてそこまで幅を広げてみようともまだ思っていない。お嫌いな人も多いであろう今回たまたま降ってわいただけのにわかファンである。嫌いな人はここで読むのをやめて欲しい。これはあくまで個人的なテキストであり、何らかの自己正当性などを他者に主張する意図や、あるいは自己の解釈であるとか愛であるとかそういうものをどなたかと競うような意図は全くない。一個人のただの感想である。
 一応、一般的な世界史の知識であるとか、あるいはインドの神話については、それなりに知っていることもあると付け加える。しかしそれはあくまで個人的な興味であり、政治的、歴史的に必ずしも正しい主張を全て選択できているという自信はない。このテキストはあくまで、フィクションとしての映画作品に対して、オタクの書いた限界感情殴り書きである。では参る。参るのだが、毎回観るたびに情緒がたいへんに散らかるため本稿も盛大に散らかったままのご提供である。ご了承ください。

 ではここから先は、おおむね世界一強い肩車の話だ。
 多分、初見でこの世界一強い肩車のシーンを目の当たりにすると、「私は何を観ているんだろう」という気持ちになると思う。そもそもRRR自体が、3時間の上映時間ほぼ全編を通して、どえらい濃度の映像を徹底的に浴びせられる映画である。ラーマのパート冒頭で出てくる、暴徒に突っ込んでいくラーマをただ見守ることしかできないモブ警察官の顔、視聴者はあの顔を3時間することになる。「私は何を観ているんだろう」。この後、本稿ではストーリー細部にフォーカスしたちまちました話をすることになるが、元の映像は、ほぼ全ての瞬間が瞬きや呼吸を忘れるほどに美しく濃密でエネルギッシュでおれたちの見たかった映像であるということを前置きしたい。圧倒的な映像体験がフルスロットルでこちらに襲いかかってきて、そのまま3時間ほぼ通しでフルスロットルで何か飛んできて勢いよく終わる。初鑑賞の際、私は主にトイレの心配から飲食物を買わなかったが、終演後に周りを見れば、ポップコーンを山盛りに残している人がいる。鑑賞中に何かを食べている余裕はRRRにはない。
さて、私は他に強い肩車が出てくる物語を他にほぼ知らない。しかし、RRRで爆誕する世界一強い肩車は、世界でも相当に強い部類に入る肩車なのではないだろうかと思う。何を言っているのか全く分からない。仕方がないのでもっと説明すると、RRRとは、この作品の主人公の二人が最終的に世界一強い肩車をして神になる話である。何を言っているのかやはり全く分からない。素晴らしすぎる映画を前にした自分の語彙力のなさをただただ嘆くばかりである。
 このままでは話が進まないので、まずは、肩車の上になる方の登場人物の話をしたい。この映画の主人公二人のうちの一人で、「火」に例えられているラーマである。顔がいい。終了。いや終了しない。エロい。違う。FGO(ソーシャルゲーム「Fate/Grand Order」のこと)ふうに説明すると、筋力A幸運E-のアーチャーである。なお、幸運値が激烈に低いのは、生身の人間なのに筋力Aというチートを、幸運値で制御した結果だと考えていたところ、他にも同じ考え方をしている人がおりdostiした。宝具は銃とかロケット花火だが第二再臨で鞭、最終再臨で弓矢になる。再臨ごとの絵柄の変化がエグく、だいたい全部で3種類以上のラーマくんが本編に出てきて、これって同じ人でしたっけとたまに脳がバグる。しかし、これは徒に変えているわけではなく、この見目と表情の違いは、実はストーリー中のラーマの心境の変化を綿密に表現しているものなのである。そして幕間の物語クリア、ではなく、ラーマの過去のストーリーを全部把握すると、本人に強化が入って宝具ランクがBからAになる。
 ラーマは、登場シーンで慈悲のない警察官の姿として描かれる。几帳面に揃えられた髪に髭の警察官の男が、デモを起こしている数万人の暴徒化したインド人の群衆に突っ込んでいき、一人で群衆を圧倒するシーンだ。圧倒と書くのは少し語弊がある。なんというか、リアルに一人ずつ丁寧にデモの参加者をKOしていくのだ。初見の時、暴力描写がなんというか全部丁寧すぎてびっくりしたし、こういうところはバーフバリの時も割と同じだったなと思った。それはさておき、このラーマの規格外の強さと、手加減なしの暴力描写に、拙い記憶の中からゴールデンカムイを思い出して、なぁんだ不死身の杉元インドにもいたんだぁ、と謎の既視感を覚える。
 ところでこのラーマは、いかつい髭の警察官として出てきたと思ったら、次のパートでえらい顔がいい男になって再登場する。いや顔はおんなじで元からよかったんだけど。警察官の制服を脱いだオフショットラーマくんはだぼっとしたシャツの胸元を開けてサスペンダーをしている。胸元があいている。そこから色気がだだ漏れである。そもそも暴徒のなかで揉みくちゃになった時に服と前髪が乱れるだけでも、なんかこの人って色気が半端なくないかと焦るのだが、このお召し替えでもう脳がバグる。なんか出る。いっぱいいっぱいになる。この服装はテストに出ます。神の作った完璧な造形。神と言えば後半は彼が神になる。何を言ってるんだろうと思うが私は映画で見たものの話をしている。見たもん!神いたもん!
 ではここで次に、肩車の下部分担当であり映画の主人公二人のうちのもう一人であるビームの話に移る。私は素人なので強引に肩車の話に持ってきてしまうが、映画本編はごく自然に世界最強の肩車が爆誕するところをもって、創造神ラージャマウリ監督にはただひれ伏すのみである。
 この作品の「水」担当ビーム、彼は森で育った素朴で強い男である。ラーマの登場シーンも相当な映像体験であったわけだが、ビームの方も負けてはいない。RRRは炎と水に例えられる2人の男の話なのだが、二人の対比の描写が細かいところから大きなところまで徹底的に描かれている。ラーマが冒頭で1対「圧倒的多」で強さが描かれたのに対し、彼は1対1でその強さが描かれる。森の中にいるにしてはだいぶ軽装な感じでフレームインして肉体美を見せつけた後、森の中でオオカミ(途中から虎)と命がけの追いかけっこを始めるのだ。茂みから出てくるオオカミを見た瞬間に踵を返して彼が走り出した時、これから何が始まるんだろうととりあえず我々は驚くしかできない。なお冒頭でこの虎の生死は不明なのであるが、物語の中盤のクライマックスで「生け捕り」されていたのだということが明かされる。我々は鑑賞を続けて暫くした後、虎とそれはもうものすごい衝撃の再会をさせられる。映画館で叫び出さなくてよかったなと思う。叫びたいよね。RRRの映像はなんか全部すごいだけではなく、物語を編むための伏線や仕掛けがあまりにも多くちりばめられている。そのため、キャラクターの魅力、ダンスやアクションの外連味で突っ走るエンターテイメント映画という枠組みを超え、魅入られた者の足を複数回映画館に運ばせることになる。執筆時点での私の鑑賞回数は10回である。30時間以上もRRRを観ているわけであるが、まだ24時間に毛が生えた程度の実績であるわけで、3時間の映画って意外と大したことはないなと思う。あとあの即効性の眠り薬が私も欲しい。話をビームの紹介に戻す。そういえばFGOふうに言うと筋力S耐久A幸運EXのライダーである。宝具は噴水をぶっ壊したホースから最後槍になる。何を言っているのか分からないけどとにかくそういうものを観たんだからしょうがない。虎を凌駕し森を駆けるビームは「ゴーンド族の虎」だ。劇中何度かでうっかり虎とぶつかりそうになることがあるけど、マトリックスのように虎がビームくんを避けて飛んでいく。ビームが虎なのでまあそうなるわけだ。そんなことある?あるんだよ!!!虎の話ではない。ビームも極めて戦闘能力が高く、何なら彼が作品中2人目の不死身の杉元であり、物語が動き出す前から不死身の杉元が2人出てくるのがRRRである。なお戦闘能力だけではなく、ビームは森で育った知恵があるので、その辺の草をすりつぶしてなんかして塗るともうなんか怪我とか毒とかすごく治る。大自然の育んだ脅威、それがビームである。なお、ビームはあくまで森の虎であり戦闘訓練をした訳ではないからか、敵を必要以上に深追いしないでだいたいKOで済ませるような戦い方をする。対するラーマは警察官というよりは最早戦闘員なので、先に述べたとおり精魂込めて骨とか首をへし折ったり頭を割ったり背骨をいわしたり丁寧な仕事をする。それでもまだ同胞は再起不能ほどにとどめているのが最大に泣けるポイントではある。字幕や台詞(多分)で明文化されていないが、ラーマはおそらく、自分の手が同胞の血で汚れていることに対して壮絶な罪悪感を失っていないのだ。なお後半で戦うことになる英国兵は完全に息の根を止めている。私はラーマの太ももで首の骨を折られるモブに生まれたかった。ラーマが作中で何本首をへし折ったか途中まで数えていたが、割と早い段階でやめた。多いので。
 以上が世界最強の肩車の構成員である。推しが推しすぎてビームの紹介の最後にもラーマの話をしたがこの先もだいたいそんな感じになるので、嫌になったら本を閉じていただければと思う。

 そんな二人がデリーの街で出会ってしまうのである。英国人に森から連れ去られた部族の子供を連れ戻すために、素性を隠し偽名を使ってデリーの街に紛れ込むビームことアクタルと、街に紛れ込んだアクタルを捜すことになる警察官のラーマは、互いの素性を知らないで出会う。列車事故に巻き込まれた子供を救うために出会うのだ。この映像がまた、また、もう、えっと、何、すごい。そんなことある?あるんだよ!!RRRだからな!!!!!もうほんと誰が観ても楽しい映像なので一度観て頂きたいし、その中でも実は意味があったり象徴的であるカットがたくさん入っている。RRRはまず初見で映像に殴られた後、最低2~3回は観るべき映画なのである。私は執筆時点で10回行っている(再掲)。私に神託を持ってきた友人は15回だそうだ。数字は当時のものであり現在のものと一致しません。
 ここでもう観た人向け前提の話をするのだが、RRRはラーマの魂が救われる物語でもあると思っている。そもそも私の推しがラーマであるのでラーマに寄った話にはなる。なるし、多分途中から私の幻覚が挿入される。さきほども書いたけれどもすまん。でも人が見ている幻覚ってたまに覗き込みたくなったりしないかな。私はする。
 そこで私の幻覚の話だ。いやまだ幻覚ではない。出会いのシーン、二人が子供を救おうとしていたことは同じだが、ラーマの方が雑踏の中からアクタルを見つける。そして少年救出後、しっかりと握られた両者の手のシーン、ここのラーマの表情なのである。冒頭にいらっしゃったラーマさんとはもしかして別人ですか??明るさとコントラストいじったか????というレベルで眩しすぎる笑顔が零れ出るのだ。冒頭との表情の温度差がエグい。心臓に来る。私の心臓は犠牲になったが、何が言いたいかというとつまり、こちらの表情がラーマの本来の姿なのである。ほんとうは誰よりも優しく柔らかい内面が、ビームとの出会いによって物語に表出する。なんてもんを私は見せられているのだろう。ラーマには、支えにしてきた人たちはたくさんいたが、一方で、隣に並び一緒に燃えさかる川に飛び込んでくれる存在はいなかったのかも知れないと思う。物語最終盤で描かれる彼の過去で、村の人たちとそして肉親の遺体が無数に転がる中、最後に1人残った肉親である父の背中に照準を合わせた瞬間に定まってしまった彼の命運と孤独な魂に、ビームという水が注がれる瞬間である。なお、救済であるとかなんとか書くと、なんだかラーマが儚い人であるような印象になるが、全くもって儚くならずにバカつよいのがラーマの、そしてRRRのいいところである。救われた魂は、全てをやり遂げたような儚く安堵に満ちた表情で目を瞑ったと思えば、どっこい次のシーンでぼくのだいすきな神の詩のフレーズを諳んじながらエクストリーム懸垂をしながらの再登場、儚さを燃えさかる木の枝でフルスイングして最終的に英国総督に炎上バイクを放り込むという冒頭の3倍くらい強くなって大英帝国を弓と槍でバチクソ駆逐する。つよい。ただつよい。
 最早映画の感想の体をなさなくなってきた自覚がある。あ、違うか、もう私の幻覚の話だからいっか。そうそう、世界一強い肩車になる話だ、あのっ、このっっっ、肩車に至るまでにほんっっっっっっっっっとうに色んなことが起こるのである、3時間あるし。むしろ色々ありすぎて3時間では足りていないのが恐ろしい。例えば、ラーマとビームが、互いの素性を知らぬまま友情を育む場面が、本作の主題の曲の一つにのせてダイジェストで描かれる所謂ドスティシーンが絶望的に足りない。全然足りない。そこだけで5時間くらい作ってもらいたいと思う。二人の未来に待ち受ける運命を二人は互いに知らないまま交流を深めていく。知らないということは、幸せでありそして残酷なことだ。しかし、そもそもラーマもビームも互いに明かさないだけで、この日々が泡沫であることを分かっているのだ。つらい。ビームなどはラーマに本当の名前すら打ち明けてはいないし、自分が宿願を果たした時は、自らが故郷に帰る日であり、あるいは自らが死ぬ時だということを分かりながら兄貴との日々を過ごす。ラーマもまた、自らの宿願を果たした暁には、故郷に帰り解放闘争に身を置くことになるのだ。だから、二人が何も知らずに過ごす日々の描写は、幸せなものだけではない。二人の表情は、互いの姿が見えなくなる瞬間に、互いに見たこともない険しい表情になっている。そしてそれ以上に、二人でいるときの互いの表情は、劇中のどんな笑顔よりも輝いている。私はほんとうに何というものを見せられているのだろう。
 そして二人の運命が分かれる瞬間が訪れる。ラーマとビームが英国人のパーティーで英国人に泡を吹かせる痛快極まりないダンスシーンから間を開けずに二人の運命が分かれるという、創作者にありがちな人の心が失われているからこそできる修羅のシナリオである。
 ラーマは二人の運命が別れた瞬間をビームより幾ばくか早く迎える。やっと手にした宿願への手がかりであるのに、ラーマは失敗して命を失いかけるのだ。蛇毒におかされ動くこともままならず朦朧とする意識の中で、アクタル本人の口からラーマは決定的な事実を聞かされてしまう。この人本当に運の値が低すぎやしないだろうか。どこまでも無垢で勇敢で美しいアクタルの存在と、対照的に同胞の血に塗れすぎている自分の姿が、今のラーマのアイデンティティそのものである遠い日の決意を揺さぶる。ラーマのこのあたりの情緒を考えると私の情緒は爆散するし、アクタルがビームであることを知る時のラーマの表情がえらいことになっているのである。全部の表情が美しいのであるが、その美しい顔で、最愛の弟分が自分の探し求める敵であったということに気付いていき情緒がぐっちゃぐっちゃになる演技を見事にしている。この辺りで視聴者の情緒もぐっちゃぐっちゃのめちゃくちゃになり、そして人類はラーマ役の俳優さん、ラーム・チャランさんの沼に落ちる。落ちよう。なんこれ。やばい。チャランくんやばい。なんだっけ、そう、それでも、ラーマもまた一度は宿願に縋る。しかし、決意したかのように見えたラーマであるのに、実際に総督邸でアクタルと向き合ったとき、ラーマはアクタルの目をまったく見ることができないし、直前に打ち明けられた本当の名前ビームではなく、ラーマは彼を「アクタル」と呼び続ける。そうして繰り広げられる、物語中の最強の男二人の殴り合いである。力を合わせて少年を救った屈強な男二人が、手加減なしに互いをボッコボコにする。二人の絆を見せられた数分後に、我々はその二人の殺し合いをご提供されるのである。二人の視線が結ばれる次の瞬間は、ラーマの前にアクタルはいない。アクタルであった親友は、睨み合った自分の胸を躊躇わずに牙で貫く、ゴーンド族のビームなのだ。そしてラーマは情緒ぐっちゃぐちゃで懊悩しながら、結局ビームを英国に引き渡す。
 ビームを犠牲にして、宿願への道筋を確立したラーマはしかし迷う。それだけでなく更に彼を待ち受けるのは、そのビームを街中で鞭打つという運命だ。さっきのドスティとナートゥからあまり時間が経っていないのに、対極に全振りされてぶち込まれてくる二人の運命の激流は私たちの情緒を母なる川に沈めてそしてやがて海へと還す。情緒よさようなら。そしてこのシーンになると、警察服を纏っていたときには無慈悲で感情を見せない恐ろしい男だったはずのラーマの表情には、明確な迷いが浮かぶようになる。ビームの鞭打ちのシーンは、主題となる曲が最高のアレンジを施されビームが歌うというビームの強さとその在り方の見せ場ではもちろんあるのだが、ここはラーマが、今まで信じてきていた「力とは、英国人の持っている武器である」という呪いから解放されるある意味での物語の最大のクライマックスシーンなのだろうなあと思う。
 ラーマ編の冒頭において描かれていた「巨大な暴力になすすべなく屈する人間」となるはずのビームは、ラーマの鞭打ちにも、他の警官からの暴行にも、凄絶な拷問に終ぞ屈しない。それどころか、一筋吹いてきた風と共に彼は微笑み、そして歌うのである。そして、ビームのその歌とその姿は、「武器を持たず、有刺鉄線の柵を越えられない民衆」を、「武器を持たずとも英国人に蜂起し、有刺鉄線の柵すら乗り越える民衆」に変える。ラーマは、自分すら持ち得ていなかった「暴力を凌駕する魂」に巡り会ってしまったのだ。村の人々と肉親の遺体が転がる中で凍り付いて佇む悲しい孤高の魂は、ビームの歌に抱かれて解放の意味を知る。ラーマはここで、英国のやり方ではない、自身の国のやり方による解放へと目覚める。だからこそ、この後に英国の武器庫の武器を手に入れることよりも、ラーマはビームにマッリを返し、逃がすことを選択するのである。祖国にとっての武器はビームであり、それを届けることこそが自分の責務であると判断するのだ。のであるが、初見だと、多分、ビームの歌に圧倒されすぎて、ラーマの変貌の真意まで意識が回らない人もいる気がするのであるがどうだろうか。このビームの歌、表情、動き、どれを取っても最高なので、うっかりビームだけを見てしまう。うっかりしてビームだけを見てしまうのはそれはそれで正解なので、全人類は2回目、3回目も見るべきである。おそらく3回目くらいで、人々が鉄条網を乗り越えてくる描写の後のラーマの表情に気付けいて頂けると思うのだ。勢いだけでは終わらない、この映画の演出力と俳優さんの演技力に、多くの人の心が打ちのめされてもらいたいなと思う。
 ビームを逃がすと決めたラーマは、粛々と計画を実行に移す。ラーマは処刑を前にしたビームに、わざと現地語で会話を聞かせ、マッリを連れてくるから逃げろという意味の入れ知恵を試みるのである。しかし、ラーマは本当に運がとてつもなく低いので、ビームには誤解された状態でそのことが伝わるし、計画途中で総督に気付かれるし、負わなくてもいいような深手を徒に負う。しかし、冒頭からのとおりラーマはだいぶ寡黙な不死身の杉元であるため、マッリを負う英国兵を一人ずつ丹念に確殺していく。岩にたたきつける。やっぱりここでも首の骨を折る。ラーマは心に決めたことを炎のように燃えさかる魂で確実に実行する男なのだ。そして、縄を切ったビームの元にマッリを届けたとき、ラーマは自分の命を天と親友に預ける。ビームと対峙した時の表情と、その後、英国兵確殺マシーンであったはずのラーマが最早モブ兵一人殺せない程弱ったにも関わらず、最後の力を振り絞ってビームが逃げ切るのを見届けるまで英国兵を抑えきった表情は、公式は巨大なポスターにして売るべきである。懸念点はものすごいネタバレというところくらいだ。序盤で毒蛇に噛まれた場面でもそうなのだが、彼は「結果に執着しない」ので、自らの命が奪われる状況も受け入れてしまう。結果としてラーマは投獄されるが、しかし、彼が執着しないのは結果であるので、命のある限り彼は自らの責務があると信じているため、決して行動をやめないのだ。そう、その牢獄でラーマが総督に呟くあの言葉、「バガヴァッド・ギーター」の一説でありその真髄こそが彼なのだ。盛り込みたい要素を詰めた上でのえげつないほどのキャラクターの作り込みである。私は監督が心の底から怖い。
 そして、投獄されたラーマに対し、うまく逃げおおせたかのように見えたビームも、逃亡先で窮していた。この国の権力は英国人が握っているのである。ビームの窮地に居合わせるのは、機転で自分たちを助ける一人の女性である。ここからの流れで明かされる、凄惨を絵に描いたよりもひどい過去の描写の瞬間が、私はこの作品を何度見ても一番好きだ。ラーマのその魂に根ざすものを説明するのに用意されている物語は、小出しで本編後半から明らかになってくるのだが、説明し終わったと思わせておいて最後にこれをぶち込む創作者のその業が私は本当に本当に好きだ。創作者がキャラクターを煮詰めるあまりに人の心をなくす瞬間が大好きだ。キャラクターの魅力をこれでもかと詰め込み、周辺人物のキャラクターを作り込み、背景を作り込み、それを極限まで突き詰めた先にある途方もない絶望と苦痛の果てに輝く物語を私は愛している。しかもそれを、ビームがラーマの真実を知るという盛り上がりの場面に上乗せしてくるものだから、視聴者の情緒は既に3回くらいこの頃跡形もなくなっている。我々の情緒は破壊されたが、まあそういうわけでビームのラーマへの誤解はここでほどけ、そして満を持して最強の肩車パートである。独房に埋まるラーマをビームが救出に行く。二人をつなぐのはあの時のリズムなのであるが、それ以上に見て頂きたいのが、ラーマとビームの再会の場面の映像である。少し前に、総督邸でラーマとビームが決別した瞬間を表現していたのは、格子の中に落ちていく鍵だった。その鍵を失ったビームは、その後のラーマの命がけの行動によってその鍵(の先にいるマッリ)を返されている。しかし、RRRには儚い男がいないため、ビームは、格子の下に落ちていった大切なものを自分で全て取り返しに行くのである。お分かり頂けるだろうか。格子の下に落ちていった鍵は、独房の鉄格子の中にいるラーマなのだ。え?幻覚?そっかぁそれでもいいやぁ。
 ラーマは先の拷問で脚を酷く負傷しているから歩くのが困難なのであるが(それでもラーマって多分あの状態で普通の日本人より早く50メートル走れると思う。ラーマなので。)、なにせラーマとビームなので、作戦概要について何も話さずとももう二人のフォーメーションは決まる。物語の盛り上がりの最高潮で二人は世界最強の肩車になる。この日この時この瞬間のための懸垂とスクワットだったのだ。RRRの描写に無駄なものは一切ないということがここでわかる。おなかいっぱいどころではないのだ。そもそも群衆で一騎当千するラーマくんという冒頭数分で多分普通の人のキャパはあふれる。冒頭数分でポップコーンが食えなくなる映画、それがRRRだ。
 そして、神の誕生である。ビームが草をすりつぶすとラーマが回復するといわれている。ラーマ最終再臨宝具は弓矢の爆誕である。なんで急に?なのではない。そもそもRRRとは、ラージャマウリ監督が、インド独立の英雄たちのうち二人に注目したファンタジーだ。相方の晴れ舞台を演出することを兄貴から教わったビームが、ラーマを仕立ててできあがるのは、神話の中のラーマであり、そして、史実のアールーリ・シータラーマ・ラージュのその姿なのである。全部のシーンに理由がある割にパワーまである、それがRRRだ。

 おつかれさまでした。
 もうなんかいい男と筋肉と使命と役割が織り成す髭が渦巻くエンターテイメントだった。ちなみに渦巻くのは髭だけではなく全体的な毛量も多かった。まずかっこいい男の睫毛からして私たちとは桁が違う瞳への脅威に晒されて進化したに違いない密度も長さも未知である規模のそれだった。ついでに後半は神が宿るところをもってしてものすごい勢いで髪が伸びていた。そんなことあるのか…まああるんだろうな…RRRだし。あと火薬もやばかった。最後の建物破壊シーンは、大鳳(大日本帝国空母)の轟沈シーンに西部警察がいてもあんなに爆発しないわという爽快な爆発だった。インド割ともの燃えやすいのかなと思いながら観ていた。

 あとは英国の描かれ方とか、そこからのエンディングは、まあなんというか、不勉強な日本人である私とは、本国の人の受け止め方はやっぱり違うのだろうし、ラーマ王子とシータ姫のところとか、みんな大好きバガヴァッド・ギーターのところは、その神話を血肉にしてきた人たちとは受け止め方が違うだろうから、それはなんか日本人というアイデンティティを一度消して触れてみたいなどという身勝手なことをぼんやり考えたりした。

 さて、そういうわけで、今年4月に北海道で行方不明になった私の情緒はデリーからぐっちゃぐちゃになって帰ってきた。こんな状態で返されても困るので私は毎週のようにRRRを観に劇場に通っている。
 なんか今年はシンウルからトップガン、FILM REDとかザワクロでさすがにもう映画たくさん観たね、すずめで締めようかな、スラダンはどうしようかなとか穏便に考えていた私は、まあ観ろ、とにかく観ろ、この映画をということでこうして無事に最高の沼に殴り飛ばされた。みなさまもエンターテイメントに殴られたまま溺れてほしい。あ、ご満足頂けない場合は返金します。ねむけが。絶対気持ちがいいから!観ればわかるから!ムルムルムルムルムルムル!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 で、どういう生まれで何食ったらあんなに睫毛って生えるんですかね。

追加で書いた、映画館別鑑賞のすすめとか色々
→「全人類今!今だ!今RRRを劇場で観てください!!!!!!!!!!!!!!

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