読書メモ:苦役列車

 かれこれ五年以上前の話になる。当時、リゾートバイトなる求人に応募し、旅館の従業員として住み込みで働いていたことがある。K氏と出会ったのもそこで、彼は私と同じように期間労働者として、私とは違う派遣会社から同じ旅館に派遣されてきていた。私は仕事が終わると、シーズンを過ぎ、寂れた地方都市の裏町を、彼とよく飲み歩いた。K氏はその時30歳で、私は23歳だった。彼はリゾートバイトの先輩として、今までにも数々の職場を転々とし(そのたびに数々の問題を起こし)、その道の先輩として私に数々の訓示を垂れた。その日も彼はかなり酔っぱらっていた。彼はピッチャーごと註文したビールを喇叭飲みした。彼はかなり泥酔してあたりかまわず叫び散らした。私は怖くなって彼を置いて店を出た。雪が深々と降る夜だった。その夜、私は布団にくるまって寝ていた。外の廊下を人の歩く音が聞こえた。その人は私の部屋の扉の前に立ち止まり、いきなり扉を引いた。扉には鍵がかけてあった。私は、わざと聞こえないふりを装い、布団にくるまりじっとしていた。K氏ははじめ、ためらいがちに私を呼びかけていたが、私が返事をしないのをみとめると、取り乱し、廊下じゅうに響き渡る声で叫び、扉を蹴り始めた。私は身じろぎもせずじっとしていた。早くこの嵐が過ぎ去ってくれればいいと願った。私はK氏が好きだった。彼の暴力的で後先顧みないふるまいも、私はなぜか憎めなかった。周りと妥協のできない彼の性格は、手の付けられない厄介事を引き起こすと同時に、どうしても見捨てておけない気持ちを私に引き起こした。そんな彼の鷹揚であけすけな接し方が、だんだんと耐えがたくなってきた。彼は私の名を呼び建物が揺れるほど扉を蹴とばした。メキメキいう音とともに扉に穴が開いた。私はじっとしていた。彼は扉の外でハアハアと荒い息を吐き、我に返ったのか、扉の前でじっとしているようだった。チョロチョロと水の流れる音がした。しばらくして彼は立ち去った。それから彼は職場に現れることはなかった。
 『苦役列車』(西村賢太著)の主人公、北町貫太もその頃の私に通ずるものを感じる。19歳の貫太は日雇いの港湾人足として、中学卒業後、その日暮らしの生活を続ける。性犯罪で父親が逮捕され、孤独な学生時代を過ごした。プライドが高く、誰とも打ち解けない彼は、高校進学をあきらめ、鶯谷に三畳間の部屋を借り、宛てのない生活を始める。

その日に稼いだ金は、次にその会社に行く為の電車賃だけ残してアッと云う間に使い果たし、また同じ額を得るべく、どうでもそこへ行かざるを得ない状況に自らを追い込む形となった。

 彼は港湾人足として肉体労働をして、その日暮らせるだけの、日銭を稼ぐ。三十キロ程ある冷凍したタコだかイカだかの柱状の塊を、黙々とパレットに積み上げる作業だ。労働を終えた貫太は、安酒をあおり飯を掻きこみタバコをふかし、当分の生活資金がなくなるまでは働きに出ずに過ごす。
 そんな彼の生活も、ある男との出会いで変化を見せる。日下部は彼と同い年で、専門学校に通う学生だ。高校時代、水泳の選手だったという彼は、ガタイがよく、貫太よりも五、六センチも身長が高い。人当たりの良い日下部は、直ぐに貫太と意気投合し、仕事終わりには一緒に飲みに行ったり、風俗に行ったりする仲になる。貫太と違い、人当たりがよく、能動的な彼は、自分から率先して仕事の技能を高め、人足以外の仕事にも取り組もうとする。日下部につられる形で、連日勤務をつづける貫太は、屋外の人足作業から、倉庫内の作業に格上げされる。プラッターの操作の習得に手間取る貫太に対して、日下部はスラスラと技能を習得する。

日下部の方はそんな貫太と違って、これらの要領をスラスラと飲み込み、アッと云う間にフロアを楽々走行しだす。そして、直ぐと次の段階の、爪の上げ下げ等のレバー操作の教えも受け始めるのであった。

 港湾の日雇い労働の中にも格差は存在する。屋外の人足作業と、倉庫内の作業。倉庫内の作業では手当が出るうえに、社員食堂でぬくい飯と熱いみそ汁を食すことができる。そこには、ほんの僅かだが、歴然とした差が存在する。

少し早めに食堂に上がり、飯を鱈腹食べたのち、腹ごなしに岸壁へ行ってみると、他の日雇い連中は皆、例の囚人食じみた箱弁を貪るようにしてかき込んでいる。
「——同じ人足でも、こりゃあまた、えらい違いが生じるもんだな」
貫太が傍らの日下部に小声で囁くと、
「あの社食を食った後じゃ、もうあの弁当は悲しくって受け付けられなくなるな。よく、今まであんなの食って夜まで働いていたもんだよ」

 仲良くつるむ貫太と日下部であったが、次第に日下部は貫太に距離を置き始める。前兆がないわけでもない。家賃の滞納で家を追い出された貫太は、無理に日下部の部屋に押しかけようとし、それが無理だとなると、代わりのアパート契約の初期費用として、日下部に金の無心をする。至極、当然だと云わんばかりの貫太と、嫌がる日下部の対比は、正直、読んでいて痛々しい。悪気がないことは日下部も承知しているだろうが、貫太本人がそのことに気づかず、傍若無人な要求を繰り返すところが、やりきれない感情にさせる。フォークリフト免許を取得し、本格的に倉庫番見習いとしての業務をする日下部に対して、貫太はまた屋外での人足作業を割り当てられる。

 次第に距離を置き始める日下部に対して、貫太は食い下がる。コンパのうわさを聞き付けた彼は、日下部に女を紹介しろとせがむ。苦笑して相手にしない日下部であったが、野球観戦を条件に、貫太と日下部と日下部の彼女の美奈子の3人で会うことになる。貫太の目から見れば、美奈子は十人並の範疇から外れる容貌であった。野球観戦の後、3人は居酒屋で相席するが、日下部と美奈子はお高くとまっているように貫太の目に映る。終始黙って安酒を啜っている貫太をよそに、日下部と美奈子は、自分とは遠い世界の話を得々と交わす。

「そうだ、このあいだ下北の××劇場のスタッフさんと一緒に飲んだんだけど、今度美奈にも引き合わせて紹介するよ。なんか本当に芝居を愛している感じの、真っすぐな人だったよ」
「えっ、紹介して!」
「うん、すごく気さくな感じだったから、話も絶対に盛り上がると思うよ」
「ほんと?それ、いくつくらいの人?」
「三十ちょっと前ぐらいだったけど、本当にアツい人だったよ。あそこもよくイベントとかやってるから、そのうち手伝いなんかに行ってみたらいいんじゃない」
「あ、いいねー。そういう話があったら、やってみようかな」

 貫太は次第に苛々しはじめる。彼ら二人の話しぶりが、自分を見下し、知能の劣った存在として馬鹿にしているように貫太には思われてくる。得々と話す彼らに対し、貫太は冷や水を浴びせ、場をぶち壊す衝動に駆られる。

おめえらは、あの辺が都会暮らしの基本ステイタスぐれえに思ってるのか?それもおめえらが好む、芋臭せえニューアカ、サブカル思考の一つの特徴なのか?そんな考えが、てめえらが田舎者の証だってことに気がつかねえのかい?

週一でしかこいつと会ってないんじゃ、やっぱりかれか。もっぱら、オナニーかい?オナニー。なのかい?どうなんだ

 居酒屋での一件以来、日下部はもはや貫太と口を利かなくなる。まあ、ここまでされては仕方がなかろう。貫太は日下部と美奈子を憎み、彼らの思いあがった態度をインテリ気取りのお利巧馬鹿だと嫌悪するが、次第につれなくなってゆく日下部に対して寂しさを感じもする。ある日、日下部は岸壁に佇む貫太に近寄り、仕事を辞める旨を伝える。学校がはじまり、忙しくなるからとのことであった。冷え切っていた二人の仲であったが、別れの挨拶はしごくさわやかだ。貫太は内心軽蔑しながらも、日下部が至極真っ当な人生を歩むことを願い、祝福するセリフを述べる。
 作業に戻った貫太は、些細なことから先輩社員を殴り、現場を出禁にされてしまう。それから数年がたち、日下部は美奈子と入籍し、郵便局に勤めていた。——しょせんは郵便屋止まりか。そう云う貫太は相変わらず人足だった。
 社会の下層で一瞬すれ違った二人の軌跡は、一瞬、希望や見栄に染まりながらも、結局は至るべきところへ至ったというべきか。根はやさしく至極真っ当な常識を身に着けながら見栄っ張りの日下部と、寂しさを抱えながらも劣等感に苛まれ不愛想にその日暮らしを続ける貫太。二人はごく近いところですれ違いながら、ミクロな視点でみると、決定的な仕方で異なっている。——しょせんは郵便屋止まりじゃないか。左様、どれだけ思いあがったところで、世の中の大抵の人間は郵便屋止まりである。私も貫太の生活を軽蔑し、忌避しながらも、やっぱり同じ穴の狢なのだ。貫太の生活はどうしようもないものだけれども、どうしようもないからこそ、「至極真っ当な」生活の滑稽さを逆照射する力がある。彼の人間が異様な輝きを纏って迫ってくるのは、彼の生が虚飾のない真実の中で剥き出しのままに営まれているからであろうか。私は私の生活の堕落を思わずにはいられない。

 冒頭の先輩は今どうしているであろうか。亀戸のキャバクラで置き去りにして以来連絡を取っていない。ひどくいい加減に処理してしまった青春のやり残しが、今になって痛切に身にこたえる。

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