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知性と感性を両立させたナチュラリスト

ナチュラリストの定義とはなんだろうか。色々な辞書や記事を読む限り、大まかに2つあるようだ。
1つ目は、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人。
2つ目は、動物や植物、鉱物などの自然物の収集・分類する学問をしている、あるいは研究をしている人。
1にしても、2にしても、ナチュラリストと聞いて、一般的にイメージされる様子と相違ないだろう。
こうした人たちの個性について、みなさんはどのようなイメージを持つだろうか。対象としているものが自然なので、みな似たような人たちに感じるかもしれないが、個性は実に様々だ。知性の塊のような人もいれば、感性豊かな人もいる。

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知性に重心が置かれると、物事の順序がスムーズだったり、科学的だったり、筋が通っていたり、総じて話に説得力がある。反面、雰囲気は堅く心も体も構える格好になりやすく退屈しがちだ。そして、自分が持つ知識以上のことを話そうとすれば、途端に底の浅さが露呈し、無理をしているのがバレてしまう。

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感性に重心が置かれると、情緒に訴える力が強くなり、その人の想像力を膨らませたり、心に印象を残す。反面、表現するものは抽象的になりがちで、受け取り手の感じ方は様々になる。そして、心から訴えたいと思う感情が少ないのに、それを演技や演出でどうにか表現しようとすると、その姿はごまかしとなり興ざめする。
それぞれに良い面・悪い面がある一方で、両方をバランス良く持っていたらどうだろうか?

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例えば、こんな人がいる。その人は学者で、調査・研究・論文発表と、まさに知性の塊だ。だが、研究対象を紹介するときの言葉じりはユーモアいっぱいで、対象物が好きでたまらない、という雰囲気を身にまとう。説明自体は、数字やデータをもとに的確で、ときには経験を語り、ときに「コイツらは・・・」などと憎まれ口を叩きながらも、言葉の端々からは好きという感情が溢れ出る。隠しても隠しきれないにじみ出る愛だ。

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また、ある人は写真家で、普段は(動物や鳥、昆虫などの)写真を撮り、写真集や画像を提供することで生計を立てている。感受性豊かなその人は、自然から得られる印象を心で深く受け止め、それを自身の磨かれた腕で写真という形にする感性の塊のような人だ。でも、人の目を引くような見た目重視で撮影するのではなく、対象物が何を食べ、何のためにどういう行動をとるのか、繁殖の仕方、どのような一生を送るのか、生息環境はどういう所なのか、何ならそれに関連する他の生き物の勉強もした上で、対象物を一枚の写真に納める。見る人が見れば分かる、立派な生態写真になっている。

こんな知性と感性を併せ持つ個性はとても魅力的であり、私が憧れそうありたいと思い続けるナチュラリストの姿だ。

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