感じると考える

おいしいものを食べたり、いいものを観たり読んだり、好きな人と話したり、そういうときに心がじわっと温かくなることが「感じる」ということだと思う。

でもそのときの温かさはだんだん無くなっていってしまう。その速度は受けた衝撃の大きさや、人にもよるけれど、永遠に存在することはない。写真を撮ったり絵を描いたり言葉にしたりしても、それはほんの一部分。

私はそのことが切なくて哀しい。だからこそ、その温かさを大切にしたくてまた同じ体験を求めたり、不完全だとわかっていても残そうとする。

自分が感じたことや、事実として存在することに対して、なぜだろう、どういうことだろう、いろいろな角度から掘り下げていくことが「考える」ことだと思う。

ある人が、「考えるとは考えていないことを考えること」だといっていた。

私はずっと「考えるふり」をしていた。物事を見つめてとにかくそのまま奥に進んでいけば考えることになると思っていた。この言葉を受け取ってから、意識して「考える」ようにしているけれど、やはり難しい。どうしても気がつくと一つの見方に偏ってしまう。

私はずっと、noteに考えたことだけを書こうと思っていた。でもたまに衝動的に感じたことを抑えきれずに書いてしまうことがある。それは感じたことを感じたままに誰かに伝えたい、感じたことを失いたくないという欲求が眠っていたからかもしれない。

今は感じたことと、考えたことと、それらを歪めずに、ほどよく織りまぜて文章が書けるようになりたいな、と思っている。

それはエッセイと言うのかな?少し私の中のイメージとは違うけれど。

この文章は感じたことと考えたことの真ん中らへんです。

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