公共の福祉と表現の自由
人権を規定するのは、各国の法律で、国連の世界人権宣言も各国の法律に落とし込まれて初めて効力を持つ。基本的人権の内の一つ、「表現の自由」は日本では憲法第21条に規定されている。
勿論、各個人が自分の領分を持ち、他人の領分を犯さ無いという規定が前提です。
最近、アメリカではTikTokとアメリカ政府の軋轢が問題になってますが、アメリカにおける人権の規定は日本より緩やかです。抑々、憲法本文で無く修正条項で規定されてるのが制定時の苦労を偲ばせます。規定についても、言論の自由と出版の自由 (the freedom of speech, or of the press;) 、あと、平穏に集会する権利、政府に抗議する権利を認めてますが、「表現の自由」という一般化された権利では無い。又、アメリカ憲法の言論や結社の自由に関する規定は、法律制定を禁じてるだけで「保障する」とは謳って無い。
更に、アメリカ社会における「表現の自由」を制限してるのが、大統領命令です。高度に三権分立が発達したアメリカ政府では、大統領の命令として「表現の自由」を制限出来る。「法の支配」を謳うなら、行政府は立法府が作成した法律の範囲内で仕事をするべきだけど、「法の支配」の理解が不十分な内は、政府内の立法府と行政府が各々独自に規則・命令を制定・発出し、裁判所が二者間のバランスを取るって感じです。つまり、アメリカの裁判官に求められるのは、社会的バランス感覚で法律の知識は二次的です。
TikTokの件は、インターネット上のソーシャルメディアのモノポリを維持したいIT産業界と、オモチャを無くしたく無いネチズンの、どちらの声に裁判所が耳を傾けるかが決定要因です。アメリカ社会の基調は「欲」ですので、それに対してTikTokの弁護士が如何に社会的ムーブメントを巻き起こせるかで勝敗が決まる様な。「自由」の国ですからね。
昭和の時代にポピュラスって、人の群に文化を振興するのを競うPCゲームが有りましたが、そのゲームを思い出します (今でも有るみたいです ↓)。文化が、野蛮 (未開) な文化から高度化した文化に進展するとすると、案件を理性もしくは知性で社会問題化する前に解消する能力を持つ文化が進歩してると言って良いのでは。
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