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小声の日記(03/25〜03/31) 本が読めるようになった

03/25
粛々と仕事。
先週末から言葉遊びをしている。脈絡のない文章を書く。それだけなんだけど、それが楽しい。

03/26
仕事の速度をゆるめたら精神的に余裕が出てきた気がする。もうすこしゆっくりやってもいい。余裕のない環境なんじゃなくて、自分で余裕のない状態においやっていた。あと、ちょっと仕事の人格を意識したら気持ちも楽になった。

1年前に書いていた日記を見つけたので読み返してみた。心臓の鼓動が早くなった。 昨年の春が終わるまでは、本当に嫌なことしかない毎日で、その中でどれだけいいことがあったかを考えるのに必死だったんだな、と思った。過去が勝手に蘇ってくる。今日眠れるか心配になってきた。

03/27
久しぶりの快晴。やっぱり晴れた日は気持ちがいい。 ぼやぼやとnoteのおすすめ投稿を読み漁る。
本はまだ読めない。もう少ししたら読めそうな気もする。読みたい本もそろそろ発売されるはずだったので、このまま良い調子になっていくことを祈る。

来月の新しい豆の販売に向けて、説明文や投稿文を書き始める。ここ2〜3週間、読書もそうだが書くこともあんまりできず、日記を書くのがやっと、という状態だったのだけど、文章が書けるようになってきた。うれしい。 寝かせて直すために、できるだけ思っていることをそのままに書いていく。推敲は後日の自分に任せる。

03/28
日記とはまた別の、誰かに向けた文章というものを書いてみたくて、その土台を整えた。こちらは豆を買ってくれた方に向けた文章を書くとして、買った人だけがわかるようにしておいた。

本当に久しぶりに本を読んだ。読めた。よかった。でも、読むだけというか、読んで自分は何を思ったのか?というところはなんだか空白で、未だに感想が書けない自分にやきもきしている。 共感できない、というか、気持ちがわからない部分が多すぎたのかもしれない。それでなんだか、読めなくなっていったような。でも、それでいい、と思うのに、気づくのに時間がかかった。自分には合わない本だった。「良い」と言われている本だから「良い」と思えない自分を疑っていた、ということのようだった。読書はもっと自由でいい。

03/29
いろのみ「四季」を聞く。雪解けのような、芽吹きのような音楽だなと思っていたら、1曲目のタイトルが「芽吹」だった。春の訪れの兆しから、花たちが続々と開花していくさまを描いているかのようで、よかった。

「本を読むからには印象に残ったフレーズを書き残し、明日からの自分の糧にしなければいけないという意識に囚われていた」とThreadsに書いていたのだけど、そもそも「時間を割いて本を読んでいるのだから当然自分は報われなければいけない」みたいな傲慢な態度があったのではないか、と自分を疑った。報われない読書はしたくない、という態度。

夜、本棚にある本をぱらぱらとめくる。当時は面白い、きっとこれはまた読み返すだろう、と思って残しておいた本たちだが、今読むと当時はどの感動がなくて、これは多分自分が変化しているからなのかもな、と思った。当時の自分にはぴったりだった言葉が、今の自分だとズレている、ということなのかもしれない。多分読み返すことはなさそうなので、手放すことにした。読み返したければどうにかして買い戻すだろう。

03/30
焙煎日。作業場に向かうバスから見えた川が春の色をしていた。冬の川は灰色っぽくて、春の川は少し青っぽい。今日も暖かい。
注文分の豆はいつも通りに、そして新しい豆は前回焼き方が微妙だったので再調整。焙煎直後の試飲の時点で心躍るおいしさだった。これはいい、いいぞ。明日飲んでみて問題なければ、来月から扱うことにする。

03/31
ゆっくりめに起きて、軽い朝食を済ませた後、試飲と梱包と発送。 発送ついでに書店に行き、近内悠太さんの「利他・ケア・傷の倫理学」を買う。

焙煎した豆が余ったので在庫販売に回し、売り切れる。届ける先がある、という状態だけで非常に満足、という感じなので今以上においしい珈琲を作る以外の成長(という変化)をあまり望んでいないのだけど、もしこれ以上を望むとしたら、自分はどういう姿を目指すのだろうか、と考えたりしていた。結局何も思いつかなかった。

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