小声の日記(08/12〜08/18)それなりにお盆

08/12
午前中、一人だったので気になっていたロストケアを観た。どうもこの作品のテーマの重たさのようなものを十分に受け取ることができなかった気分だった。逃げようのない問いを突きつけられて終わることを望んでいたせいか、どこかきれいに終わってしまった感じがして不完全燃焼。

焙煎するのに毎度緊張するのは、良いと思っているものがその時点で完成されていない(=いいものを必ず届けられるという確証がない)ことへの不安が原因なのだと思った。完成されないからこそ不安なのであれば、毎回そうなってしまうのも頷けるし、多分一生そうなのだと諦めがつく。

08/13
本棚の整理をし始めて、読まなくなった本を少しずつ手放している。これまで読んできた本は、もしかしたらほとんど自分の糧にはなっていないのかもしれないが、ときどき訪れる「これなんかの本で読んだ気がする!」という邂逅のための伏線を自分で張っているのだと思うことにした。

08/14
仕事を早めに切り上げてルックバックを観に行く。平日だし大丈夫だろうと思っていたが、お盆期間中であることを忘れていた。座席はほとんど埋まっており、観るタイミングを間違えたかもしれない。

出会いとか別れとか、そういった事象に意味付けをするのは自分自身なのだけど、不本意な別れがあったとしても、出会うという事象自体は肯定し続けていいのだということを思ったのだった。haruka nakamuraの音楽が美しかった。

08/15
飲みに行く。人と話すことで自分の輪郭が象られていくような感じがして心地よかった。人と話せば話すほど、その人と違う部分の集積によって自分がわかってくるのではないか。

08/16
今日送り火だったことをすっかり忘れていて、家から少しだけ見える「法」を眺めた。 「送り火を見るたびにさみしい気持ちになり、ちゃんと祖父母の家を周ればよかったと毎年後悔する」と妻が言っていて、自分にはそういった感覚がないので新鮮だった。健全な後ろめたさを呼び起こすための行事としても存在しているのかもしれない。中継映像から流れる、遠くで揺らぐ火に向けて二人で手を合わせていた。夏が終わっていく。

08/17
朝から車でお気に入りのパン屋へ赴いた。いつ行ってもパン屋は楽しい。欲望のままにトレーにパンを乗せていった結果、あんまり見ない値段を叩き出していた。これはお昼に、これはおやつに、と言い聞かせながら買ったパンたちはお昼ごはんとして全て消えていったのだった。

夜、久しぶりに読書。これまで付箋を貼ることが、ちゃんとおまえ覚えてんのか?と自分を責めるツールみたいなっていたが、さっき本を開いた時に「過去の自分はどんな言葉が響いたのだろうか?」と思うようになっていて驚いた。自分に優しくなっている。どうした?

08/18
車で信号待ちをしている中、ふとバックミラーを見ると後ろの運転手とそのまた後ろの運転手がわざわざ車から降りて揉めていた。特に自分に被害があったわけではないけれど、ああいう場面を見ると心がざわざわするのでいたたまれないような気持ちになってしまった。ひとしきり揉めた後、2つ後ろの運転手にかなり無茶な追い越し方をされてエネルギーが持っていかれてしまった。こういうときにユーモアを閃いて対処できるようになりたい。

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