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元に戻る世界と私

フランスで外出禁止が解除されてから、もうすっかり元の世界に戻ってしまった(社会では様々な解決すべき問題はあるにせよ)。4月下旬から、元に戻る事に大きな不安感があり、また自分と身近な人との関係において解決しなければならない問題があり、5月中はほぼ憔悴しきっていた。

不安が大きくなり、悪夢、睡眠過多、目覚めが悪い、日中身体が怠い、気力がない、部屋が片付けられない、掃除ができない、料理ができない、運動ができない、抑うつ状態になる。希死念慮と共に現れるのが「自分は誰からも必要とされない存在である」という考えで、その考えに圧迫され何もできなくなってしまう。

3月、4月のような明るさや満ち足りた気力なんかが消え失せてしまったようだ。しなければいけない事もできない。朝起きて明るく照らされる事に居心地の悪さを感じる。文章が読めなくなり、書けなくなり、考えられなくなった。こういう時は、誰のなんの言葉もまったく沁み込んでこない。心配してかけてもらった言葉も跳ね返すみたいに。日本の政治や世界の惨状をtwitterで人々の思いと共に知ると、救いのない地獄のような世界に対し絶望する。「この世界でなぜ生きなければならないのか」。幸い仕事先から職場復帰の要請はまだない。(ゆくゆくは解雇されるだろうけれどそれは私にとって問題ではなくむしろ望んでいる事だ。)

かろうじてできた事といえば、ほぼ毎日映画をみて、映画について考え、映画の絵を描き、ゲームをプレイすることだった。

「自分は誰からも必要とされない存在である」という考えに強く囚われると希死念慮が湧いてくる。これは幼少期適切な愛を親から受け取る事ができなかったためだ。愛がわからないと言いながら、それに一番執着してしまう。「誰かに適切に愛される事」や「誰かを愛する事」では解決されない。自身の存在を他者に依るのは大変危険だからだ。「自己を愛す」事ができなければ意味がない。でもこの欠けた部分は恐らく埋める事はできない。唯一できることは、自身を知り、許し、受け入れる事だけだ。だからこの気持ちとうまく距離をとったりしながら付き合っていくしかない。「なぜ生きるのか」「死にたい」という気持ちはずっとある。しかしその気持ちだけに支配されないようにするしかない。「生きていきたい」という気持ちがある訳ではなく、つらくてしんどい気持ちを持ちながら「死にたい」を実行できないだけだとしても。

「自分はこうである」と受け入れる事ができるようになってから、この不安に支配される状態から平静な状態に戻れる、とわかっていたので、ただじっとそれを待つ。「大丈夫になりたい」と少しずつ思えるようになり、今、自分を客観的にみつめるため文章に残している。5月中ほぼずっとこのような状態だったけれど、少しずつまた足を踏み出さねばならないと思えるようになった。自己を愛する事ができなくても受け入れる事によって自己を少しずつ肯定していく事ができるのではないかと思う。それは自分の気持ちが波のように変わってゆくというのを受け入れるという事だ。

映画の絵を描くためにラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」について考えていた時、思い当たる事があった。この映画は、うつ状態であった女性が世界の滅亡が近づくにつれ冷静に落ち着いていき、健康的であった人々が不安でパニックになる、という描写がある。このパンデミックで経験した自分の精神状態とまるで重なる。最初に観たとき、映画のラストについて、妙に落ち着く気持ちになると感じていた。世界の滅亡や世界の危機について私は密かに希望を持っているのだな。ああ、でも私の生きるこの世界は戻ってしまったから。



おいしいアイスクリームや、読んでみたい本を購入する事につかいます!