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主語を大きくして話す人

最近よく聞く気がする。

「主語を大きくして話す」という言葉。

例えば、小学生が使いがちな「このゲームみんな持ってるから僕も欲しい」という場面。この場合の「みんな」はクラスの中の全員ではなく、過半数も超えていなくて、自分の周りの2、3人くらいが持ってるという話だ。

子どもが親を説得するのに必死でそのような表現を使うのはかわいいものだけれど、大人もよく使っている。むしろ大人の使い方は場面によっては卑怯だ。それに、自分の考えを通すために必要なのかもしれないけど、あまりにも主語を大きくしすぎると見苦しい。


よくあるのはこんなケース。

○○さんは苦手ってみんな言ってますよね、と職場で噂話や悪口をするときに使われる「みんな」。みんなって誰?大抵はこういう話し方をする人は、共感を得たいために大きめに言ってるものだと思う。そしてこれを他の人に言う人は、他の人が聞いてるときに面倒くさくて、そうですね、くらいの相槌を打っただけで、××さんも言ってたとか言ってしまうんだと思う。


他にも例えば、タトゥーを公共の場で認めるべきか、みたいな議論で、海外ではファッションとして認められてると言うときの「海外」。海外って日本以外の国全部という意味で使っているのだろうか。一部だとしたらこの言い方は正しいのだろうか。タトゥーに対しての私自身の意見はさておき、こういうときに海外ではと言ってしまう人は、視野が広いように見えてそうでもないと思う。海外とまずひとくくりにして語ることが不可能だし、国によっていろいろと異なる。韓国では日本と同じような扱いだと聞くし、先進国や欧米諸国でも、公務員や警察官になれなかったり、見えるところにあればオフィスワークもできない国もある。刑務所帰りの印もあるらしい。


それから最近よくあるので言うと、批判殺到、炎上などと煽るタイトルをつけたネット記事など。これは主語らしい主語はないけれど、いかにも過半数がそう思ってるような印象を植える。


どれに共通するのも、一部の声の大きい人たちや印象の強い人や国たちが全てだと思ってしまっているところだ。

サイレントマジョリティーという言葉があるように、多数派は基本静かだ。多数派はまず、他多数と同意見なのだから声を大きくして話す必要がない。

もちろん少数派の意見にも聞くべき意見はたくさんあるし、声の大きい人が他多数の声を代弁している場合もある。

だけど、一部の人によって印象操作はされるべきではないし、自分が何かを主張する側になったら、「みんなこう思ってる」という言い方はせずに正当に意見を述べたい。

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