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やうやう白くなり行く

うすくオレンジの混じった白が優しく夜の紫を溶かしていく、その空の色がとても綺麗に感じる明け方には、寝ているのなんかもったいない気持ちにもなる。

というのは、眠れないだけなのだけれども。この時間まで眠れないのはいつぶりだろうか。すでに時刻は4時29分、けれど明日は土曜日だからいいのだ。いや明日じゃなくって今日か。
最近は紅茶を丁寧に淹れるのに凝っていて、貴族のティータイムよろしくきちんとタイマーで時間を測って蒸らしたら、冷凍庫から氷を取り出して、ぽとり。かき混ぜればりんりんりんと氷がちいさく鳴って、やっと春めきはじめたばかりだというのにもう、風鈴を先取りしているような気持ち。温暖すぎる夏の気候をうかつにも、疑似体験してしまって、最近うら暖かくのどかになりはじめた昼間の空気にあわてて想いを馳せる。

窓を開け、澄んだ空気をゆっくりと吸い込む。
レースのカーテン越しにくるくる回る洗濯物たたちと、その合間から届く誰かの生活の光。覇道ながらアイスティーを入れたマグカップをもつ手のひらと、夜でも朝でもない明け方の空気に晒された足先がうっすら冷たくて気持ちがいい。
あのマンションらしい建物の、その窓の向こう側にも、この時間に鳥が鳴いたり時々車が通る音を聴いたりしてている誰かがいるだろうか。いま私が足元で受け止める、この優しく冷たい明け方の空気を、誰かが感じているのだろうか。私の窓の向こうにある窓の、そのまた向こうの誰かも。春のうららかな昼間は、暖かい陽の光に包まれながらも流れる空気はすこし冬の匂いが残る冷たさで、出会いと別れが共存する春らしい冷たい優しさがあると思う。
同じように春の明け方も、足を伝う空気は冷たいけれどあの肌をさすような冬の空気の冷たさよりはいくらか柔和な表情をしていて、夜空に白く溶けていくのと同じ優しさで、肌に冷たく溶けていく。

それはバスに揺られて街から街へ移るときによく似ている。車窓から見える、匿名性のある家屋や雑貨屋や電信柱や郵便ポスト。その傍に見える彼や彼女と、私の人生が交わる、その瞬間。たとえば私がこれから行くコンビニでグミを選んでいるとき、その狭い通路を通る人。あるいは棚を挟んだ向かいの通路で、カップスープを選ぶ人。はたまた、レジでお会計を担当してくれる人。
無限に広がる行動の枝たち、そのなかのひとつから無造作に選び取った、その行動どうしの接点に彼や彼女がいる可能性について考える。

それはとても気の遠くなる可能性に思われるけれども、私には私を起点とする人生があって、彼らには彼らを起点とする人生があってそこには本人にしかすべてを知り得ない歴史があって信条があって価値観があって、人という枠のなかにひとつの世界がある。

バスという小さな乗り物に揺られて、自分の知り得ない世界のひとつひとつを目撃しながら、同じように自分のことを知らない世界が広がっている街へ辿り着くことができるのは、閉じた自分の世界を開き、相対化してくれるのであるから、それは救いであるような気が少し、するのだ。そう思える瞬間が生活と生活をつなぐ断片のどこかしらにあるというのはとても非合理的で、かつとても人間らしく思う。

バスから見える世界で自分と外界とを繋ぐように、春の冷たくて優しい空気を、青に白が溶けてく空を、窓の向こうの私の知らないあなたの世界にも見えているのかしらと思いを馳せると、自分と外界が繋がる気配がする。

私の知らないあなたを、その世界を、あなたの知らない世界としての私を、ぐるっと感じるのはいつぶりかしらと頭をひねる。
ある程度大人になって、もう初期化してしまいたい夜をいくつも乗り越えて、でもそれはきっとこの窓の向こうの窓の、そのまた向こうの、こんな時間に明かりをつけて外の空気を吸っているような誰かにとってもきっと同じなんだろうことが思われる。

下のほうからどんどん溶け出していった白はもう空のほとんどに優しく広がっていて、空はもう総体として白い。優雅に羽ばたく鳥がその白を、おもむろに横切っていく。
始発が走りだす音が聞こえてきて、いい加減寝なければ……。そう思ってカーテンを閉めようとするのだけれど、まだこの優しくて冷たい空気を感じていたい。ああもっと贅沢に淹れればよかった。起きている口実にしたくって、すでに氷の溶け切ったアイスティーを名残惜しく啜り続ける。ほの白く優しい明け方が、完全に終わってしまうまで。

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