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散歩する惑星
怒涛の11月が終わり、12月。とにかくすぐに記憶が抜けていってしまう残念な脳なので、昨日何をしていたのかもろくに思い出せないが、11月がとにかく忙しかったということだけは覚えている。
「ご自愛しましょう」「頑張らない」と言われても、しっくり来ない。そんな言葉は、きちんと頑張っている人に向けられて初めて機能するもので、すでに頑張っていない(ことに対して疲れを感じている)人に向けても、ぐにゃんと形を変える粘土のように張り合いのない言葉として空中に浮いてしまう。
忙しさは、自分で意識して作り出すというより、周りから自分の役割を要請される時に生まれる。なので、ありがたいとも思う。
就活をしている頃、私は全然うまくいかないダメ学生で、選考は進まないし、そもそも自分がやりたいことも特にないし、コロナだし、で、とにかく毎日暇だった。時間が有り余るほどあった。毎朝毎朝、目が覚めると時間があるので、ある時から散歩にハマり出した。
最初のうちは、楽しかった。自分の足で歩いてみると、つまらないと思っていた近所に新しい店を見つけたり、植物の彩りに気づいたりして、地元に愛着が湧いたりした。
しかし、繰り返し当て所なく歩いているうちに、この移動行為の意味のなさにやられ、歩くことが虚しくなった。遊びに行くときは、私と会うために待ち合わせている友人がいるから移動する。大学に行くときは、学生として振る舞う理由があるから移動する。仕事へ行く人は、その仕事をする自分を求められているから会社に向かって移動する。次の日にまた来ることを求められるから、家に帰る。
私の散歩は、果たして移動と呼べるのか。意味のない点同士を結ぶ、意味のない身体の虚しさがあった。
就職して、仕事に向かうためにお台場のだだっ広い道を歩いていた時、あ、自分が求められて歩いている、と気づき嬉しかった。今はもう、誰も私を求めないでくれと思うけど。
自分のことを書きすぎました。
今、ロイ・アンダーソンの映画みたいなテンションです。久しぶりに「ホモ・サピエンスの涙」を見ようかしら。
夜ふかしせず、眠れる時はしっかり眠って、動ける時はしっかり運動して、いい気分で2022年を終えられるよう、お互い頑張りましょう。
(2022年12月4日 更新)
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