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大竹伸朗「内側の地形」

こんばんは。

だいぶ前だけど、国立近代美術館の「大竹伸朗展」に行ってきました。超、よかった〜。私にとって超よかったので、備忘録的に書き留めておこうと思う。長いよ

大竹伸朗 ビル景 1978-2019 @水戸芸術館

初めて大竹伸朗の作品を見たのは、実はそんなに前のことでもなくて、2019年7月13日(土)~10月6日(日)に水戸芸術館で開催されていた「大竹伸朗 ビル景 1978-2019」だった。正直、当時は「ニューシャネル」のフォントが印象的な人、くらいの知識しかなかった。当時大学3年生だった私は、グラフィティ(ストリートアート)に強い関心を持っており、この水戸芸術館が日本グラフィティ史に残る「X-COLOR/グラフィティ in Japan」という展覧会を開催した美術館であることを知っていたので、一度行ってみたい気持ちがあった。結局のところ、美術館は建物の綺麗さや立地やアーティストの著名さなんてどうでもよくて、学芸員・館長の想いが自分のフィーリングと合うかどうかがすべてだと思う。私がもう行きたくても行けない展覧会を企画した美術館に行ってみたくなり、単身、バスタ新宿から水戸駅までのバスに乗り込んだ。

この展覧会は、大竹伸朗の膨大な作品の中から、「香港、ロンドン、東京といった様々な都市の、湿度や熱、騒音、匂い。それらがランダムにミックスされ、「ビル」という形を伴って描き出される仮想の風景」である「ビル景」の作品のみが集められていた。私自身2018年に香港に行ったばかりで、街の空気に魅了された記憶を引きずっていたので、作品自体を心地よく感じた。しかし何より良かったのは作品リストに大竹伸朗自身が記したキャプションだった。以下、作品リストから引用↓

「ビルとの出会い」  
絵のモチーフとして「ビルディング」を意識し始めたのは、1979年9月から80年代前半にかけて度々訪れた「香港」でのことだった。  蒸し暑い真夏のある日、何気なく見ていた中景の「ビル」が自分自身と強烈に同期したように感じた。  屋上正面に社名の立体文字が設置された素っ気ない「白いビル」だった。  内側から強くせき立てられ、自分を包み込む香港の空気や湿気、熱波、匂いやノイズすべてを絵の中に閉じ込めたいと思った。  鉛筆で一気に描いたその「ビル風景」の絵を見たとき、内と外が合体したような感覚を覚えた。

「内側の地形」
人の内側にはそれぞれ異なる「地形」があり、個々唯一無二の風景を成している、そう思うことがある。  「ビルのある風景」を描いていると、自分の内側の「地形」をぶらぶらと測量しながら「地図」を作っているような気持ちになることがある。

私は絵や作品を見るとき、その絵の構図とかなんとかは正直何も分からなくて、ただ、自分の記憶や心の内側と反応する瞬間を探り当てるような感覚でいる。それが見つかった時、自分の中身を掴めたような、目には見えない自分の色彩や勢い(感情を含む)を目の前に見ているような? そんな瞬間が待ち遠しくて、なんだかいろんな作品を見に行ってしまう。それは例えばロスコのような絵画に限らず、ゴードン・マッタ=クラークやマイク・ケリーのように、その名前を聞くだけで嬉しくなることもあったりして、この感覚をなんと表現すれば・・と思っていた所に降ってきたのが、大竹伸朗の言葉だった。「自分の内側の地形を測量するように」…まさに、この感覚が私が言いたいことだった。自分の内側の地形と、作品の線形がスッと重なり合う感覚。私が今までどうにも自分の言葉では表せなかった心の動きを、わずか2文で言い表してしまう大竹伸朗に、一瞬で心を奪われたのを今でも覚えている。

大竹伸朗展 @国立近代美術館

大竹伸朗の回顧展として大々的に開かれた今回の展覧会では、上記のビル景に限らず、「絵画、版画、素描、彫刻、映像、絵本、音、エッセイ、インスタレーション、巨大な建造物に至るまで、猛々しい創作意欲でおびただしい数の仕事」が展示されている。あまりに夥しくて、逆に素通りしてしまうような、塗り重ねられた作品群。会場で上映されていた「21世紀のBUG男 画家 大竹伸朗」を見ると、作品と、彼の生い立ちやら性格などの情報がリンクしていく(かなり素直な人でサイコー)。

上の絵を目の前にした時、ああ、この絵のもつ曖昧さを受容したい、自分のものにしたいと思った。自分が「こうだ」と決め込んでいるものから脱したい。私の感情は言葉になる過程できっと多くの意味を落としてしまっており、しかしその言葉以外で表現することを面倒くさがって諦めるから、結局何だかいつも通りの、ストレスのない、それっぽい、スッキリとしたものにまとまってしまう。言葉から抜け落ちる感情の描写を諦めるうちに、感情自体を簡潔化し、固定化してしまっている感覚がある(メロンが嫌いだと言い続ければ、メロンを嫌いになるように)。

外部からの刺激と混ざり合いながら、わかりやすい形で明らかにできない、曖昧さ、明瞭でないさまを、自分の内側の景色として認める。その作業が面倒でも、まとめてしまうよりは、まとまらないことを良しとする。頭で考えすぎなくても、心の景色の解像度を上げて、そのまま表現できれば問題はない。感情よりも言葉を先立たせない。言葉以外で表現するか、言葉で表現する場合には言葉を尽くす努力をする。

(だから、簡潔な答えを求めがちな昨今の風潮にはかなり嫌悪感を覚えるし、この感覚は大事にしておきたい)

昨年知り合ったダンサーは、学生時代の師匠から「ダンサーは踊れるだけじゃだめ、自分の考えてることを言葉にできないとダメだとしごかれた」と話していた。うまく言葉にならない時はもどかしくて、つい使い慣れた言葉でパッケージングしてしまう。もう、そんな取り繕いの言葉はいらん、いらん。自分の内側の地形を、その線形を、その凹凸を、その景色を、そのまま表すことができたらいいのに。

大竹伸朗展は2023.2.5まで。是非に。

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