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東京の街は「線」で溢れていた|#上京のはなし

あ、鮮やかな匂いがする。


わたしはバスタ新宿に到着したバスから降りて大きく息を吸った。
そんな空白の時間も束の間、バスのお腹に積まれていたスーツケースを受け取り、目の前を行く人々の雑踏の中に紛れる。

その瞬間は、ぐるぐると回っている大縄の中に入る、あの光景のようだといつも思う。大縄跳びに想いを馳せるわたしのそばには、そのときどきの季節や天気、そしてわたし自身の感情を映したような匂いがある。


一年半前のわたし。
どういうわけかメンバーに選んでいただいた あるプログラムの初日、自己紹介の冒頭に、この日バスを降りた瞬間に感じた匂いの話をした。

わたしにとっては何気ない一言で、このプログラムに対する期待を伝えられたらいいなと思っての言葉だった。
けれど、そこで出会った友人はわたしに会うたびに「あの自己紹介がすごく印象的だった」という話をしてくれる。
もしかしたら、それ以外に印象的なことがなかったのかもしれないなと考える卑屈なわたしもいるのだけれど、「バスを降りたときに匂いを感じてそれを言葉にできる感覚、私にはないから絶対大事にした方がいいよ」という想像以上に大きな肯定が嬉しくて、あの日からはバスや電車を降りて東京に降り立つとき、呼吸とともに感じる匂いに意識的になることが習慣になっている。




わたしが上京をしたのは4年前の4月、大学進学に合わせてのことだ。
それまでのわたしにとっての東京は「とうきょう」というよりも「とーきょー」で、中学生の時の修学旅行先であり、ディズニーランドに行く時に新幹線から降りる場所であり、わたしが目指している大学があるらしい場所だった。

東京の大学へ行くことを決めた理由は、その大学が、様々な講義を受けた上で進学する学部を決められる仕組みだったから。そして、木曽川のほとりにある小さな田舎町から名古屋の高校へ進学したことで、人が目指し集まってくる場所には多くのチャンスと可能性があると感じたから、ということにしている。
どちらも事実で間違いではないのだけれど、本当の理由は今のわたしにも分からない。

どちらにせよ、大学の側面に多々触れた後で学部学科を決める仕組みのおかげでわたしは満足いく選択ができたし、東京には本当にたくさんの人と場所があり、そこには大切な出会いと限りないチャンスや可能性があった。




一方で、東京の街で暮らしたり、少し離れて他の地域を訪れたり、また東京で暮らしたりする日々、たくさん笑ってたくさん悩んで過ごす中で、上京する前には想像もしえなかった気づきもあった。


それは、「とにかく線が多い」ということ。

東京の街には人も建物がたくさんあるのだけれど、それを一つ一つ認識するより前に「線が多い」という印象を抱く。
真っ直ぐに伸びる道路、垂直に立つビル群、そこにくっついている看板たち。建物の中に入っても、柱、机、椅子、棚、人々が持っているパソコンにタブレット、そこに繋がれた充電コード……。

線、特に直線が多い。

無限に迫ってくる直線から直接に不快感や恐怖を感じることはないけれど、ずっと線だらけの空間にいると思考が制限されたり何かに拘束されたりするような感覚がある。
と考えているそばから、こうやって"思考"とか"制限"とか"拘束"とか、どこか角ばっていて堅苦しいような表現になってしまう。


直線は便利だ。
水平な地面に垂直な柱を立てて、そこに屋根をかけることで人間は空間を作ってきたし、材料はまっすぐ切り出すのが一番効率がいい。通る点を2つ選べば決まる直線は、書くにも認識するにも情報量が少なくて済む。

だけど、どうしても、直線に囲まれていると息が詰まってしまう。
なんというか、「あなたはこっからここまで!」というような制限を無意識に与えられている感覚になるのだ。


そんなときわたしは、自分自身の頭や心をほぐそうと音楽を聴く。
お気に入りの音楽。
絶えず揺らぎながらゆったりと流れていくメロディー。
正確には捉えることのできない感情を言葉を尽くして表現した歌詞。
それを受けて何かを感じたり思い出したり、伸び縮みするわたしの心。


ぷつ、ぷつと音楽が途切れる。
見渡すと周りの人々はみんなワイヤレスイヤホンを着けて何かを聞いている。わたしもその中の一人。
ああ、Bluetoothが誰かのものと干渉したんだ。

ぷつ。ぷつ。


また、線だ。


この空間にある数多くの電子機器からは目に見えない線が飛んでいて、これまた数多くの電子機器と繋がっている。


そう。
この街では、目に見えない線もとにかく多い。

それは恐らく、人と人の間を、人と物の間を飛び交っている情報の多さに比例していて、なにか数値的なものやニュース、そして個人的な出来事や感情が街には溢れかえっている。


わたしが多いと感じている「線」は、「何かを明確に区別するもの」なんだろうなと思う。
ビル群の線は、建物の外と中を明確に区別するもの。
物体が持つ線は、その物とそれ以外を明確に区別するもの。
Bluetoothの線は、その「無線」が繋いでいる電子機器を他の誰かが持っているそれと明確に区別するもの。

それは、「ここからここまではAで、この先はBですよ」というはっきりとした境界に近いものだと思っていて、東京にはこの「はっきりとした境界」が非常に多い。


それは、人と人の間にあるものにも同じように言えるのではないだろうか。
東京には、たくさんの人が社会の中でトラブルなく生きていくために形作られてきた境界線が数多くあるように思う。
アパートの隣人として、店員と客として、電車で隣に座った者同士として、様々な関係性が生まれるこの街で、よくある関係性にはそれに似合う接し方や距離感がなんとなく存在していて、それは「わたしとあなた」を明確に区別する境界線だ。

この境界線が東京以外の場所では存在しないことは全くないけれど、膨大な数のものが飛び交う東京にはやっぱり多い。
よく考えればそれは当たり前のことで、目の前を通り過ぎていく多くの人全てと、いちいち「わたしとあなたの距離感はこれくらいがお互いにとって心地良さそうですね」という合意に至るまでのコミュニケーションをとっていては、その日の目的地に着いた頃にはもう疲労困憊になってしまうだろう。



しかし、だからここで東京は線で溢れかえっていて疲れる街だとか、東京の人は冷たいとか、そういうことを書きたいわけではない。

東京は線で溢れかえる街だからこそ、線非ざるものの存在が際立つ街だとも感じていて、わたしはそこに東京で暮らすことの希望のようなものを抱いているのだ。




たとえば、線を震わすもの。
ビルの隙間を抜けてわたしの元へ届くそよ風。

たとえば、境界が溶けていくようす。
お気に入りのカフェで頼んだジンジャーエール。
考え事に疲れてぼーっとコップを眺めていると、シロップと炭酸水の境目がゆらゆらと踊っている。ここのジンジャーエールには店主の地元で作られたこだわりのジンジャーシロップが使われていて、舌の奥に広がるスパイスの香りとそれを包み込む暖かい甘みが心地良い。

たとえば、「明確に区別しない」境界線。
大切な友人と答えのない問いや感じていることをポツリポツリと語らう。
自分とは違う世界の見え方に新鮮な驚きを抱き、今まで知らなかった彼らの一面に出会う。お互い交換していく言葉を通して考え方を擦り合わせたり、共感したり、違いに興味を持ったり。
この、踏み込んでいく歩幅や関係性の規定されない信頼は、わたしの生きていたい理由の一つだ。



線と同じ数だけ、線ではないものがあると思う。
線ばかり目についてしまうのは、それがわたしたち人間にとって認識しやすいものだから。忙しいとか不安だとかで自分に余裕のないときには、人間にとって便利なスケール感でしかこの世界を見れず、線ばかりがわたしの周りにあるような気になってしまう。


ぐっと近づいてみたり、逆に遠くからそっと眺めてみたりすることで、どこか曖昧さのある余白に心を連れていくことができる。
それと同時に、線のありがたみを強く実感することもできるだろう。





近くにピントを合わせたり、遠くにピントを合わせたり。


わたしたちの目には水晶体というレンズがあり、その周りの筋肉が緊張と弛緩を繰り返すことで水晶体は厚みを変えてピントの調節を行う。
目を酷使すると、その筋肉が疲れてしまうから視力が落ちてしまうんだと、眼科の先生は当時小学生だったわたしに言った。そして、メガネは筋肉が苦手になったピント調節のはたらきを助けてくれると。
遺伝なのか本の読みすぎのせいなのか、視力が悪くなっていくことは当時のわたしにとって大きなコンプレックスで、メガネをかけることを長い間拒んでいた。
両親は視力アップトレーニングに通わせてくれて一時は少しだけ良くなったものの、教室の張り紙に書かれた「〇〇さん、視力0.3→1.0!」という誰かの結果は憧れのままだった。


初めてメガネを買ってもらった帰りの車の中で、車窓から見える遠くの看板の文字が鮮明に見えることが驚きだった。
新しい景色に興奮していたのか、無意識にその看板の文字を次々と口に出していたことを何故か今でも覚えている。



無限かと思うほど膨大な情報の中にある東京では、そんな、ピント調節を助けてくれるメガネが、ときに近くの世界を鮮明に、ときに遠くの世界を広い視野で見れるようにわたしを支えてくれるメガネが、必要なのだと思う。

ただ、そのメガネを他の誰かが作ってくれるわけではない。
少しずつ自分を知って、少しずつ人を知って、その中でわたし自身がわたしのために創っていくことが「生きる」ということなのかもしれない、と時折考える。


そのヒントが、場所を移動してきた瞬間に抱く第一印象にもある。
わたしにとって東京へ行くときは何かの節目のタイミングが多く、東京へ降り立つ瞬間の匂いを言語化したものは、大きな大きなヒントだ。
東京という情報の多い街で、なにを選び取っていきたいと思っているかのヒントがそこにあると思う。





実はわたしは2ヶ月ほど前から大きく体調を崩してしまい、今は地元で過ごしている。夏休みが終わると大学での講義が始まるわけで、わたしはまた「上京」することになるだろう。
そんな未来、東京へ降り立ったわたしは その瞬間の匂いに何を思うだろうか。それをヒントに、わたしはわたしを深めていけるだろうか。



線の多さに気付いたからこそ、線を震わすものの曖昧さを豊かだと感じられているように、不安を抱えているときにこそ、その日々の煌めきを抱える勇気を持つことができる。
未来のことは分からないけれど、
今のわたしは、そうおもっている。


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