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【書籍】フォトモンタージュ 操作と創造

サブタイトルは「ダダ、構成主義、シュルレアリスムの図像」。激動の時代における写真の変容を、フォトモンタージュを中心にみていく本書。

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写真のネガ像を合成する実践は写真の誕生後、比較的早い段階で行われている。その原始はオスカー・G・レイランダーの『人生の二つの道』(1854)にあり、絵画的なコンテクストを踏襲して制作されたものであった。

「フォトモンタージュ」という言葉はラウル・ハウスマンが著書『クリエ・ダダ』(1958)の中で、ジョン・ハートフィールドらのダダイストたちとの同意のもとで命名されたと記されている。

ドイツ語の「モンタージュ」(Montage)は、「機械の部品」または「組み立て工程」を指しており、「モントゥール」(Monteur)は「機械工」または「技師」を指している。

「ベルリンのダダイストたちは写真を既製(レディ・メイド)のイメージとして使い」、またハンナ・ヘーヒが「私の全目的は、機械や工業の世界から出てきたもの(オブジェ)を芸術世界の中で結合することにあった」という。

ヘーヒの作品≪ダダの庖丁≫(1919)にみられるように、フォトモンタージュの材料(マテリアル)であった写真と新聞紙は、図像的(イコノグラフィカル)な意味だけではなく、機械工程によっても制作されていたのでは、と著者(ドーン・エイズ)はみている。

ほぼ同時期に、ロシア構成主義者たちも同様にフォトモンタージュによる制作を開始している。

コンテクストとして、ダダのフォトモンタージュはキュビズムのコラージュの延長線上に位置するものの、根本的には異なっていることを、ルイ・アラゴン『マックス・エルンストー幻想の画家』(1965)で述べている。

さらにアラゴンの著書『挑発された絵画』(1930)では、コラージュのカテゴリーを明確に二分している。

第一のカテゴリーは、貼り付けられた要素がその再現=表象的特性において価値あるもの。第二のカテゴリーは、その素材的(物的)特性において価値あるもの。

キュビストたちは第二のカテゴリー、すなわち絵画の構成要素として用いていた=手法であるのに対し、マックス・エルンストは≪運動を通した健康≫(1920頃)などの作品で、「そこでは再現=表象されたもの(オブジェ)は言葉の役割を果たしている」とアラゴンは同著で指摘している。

なかでもセルゲイ・トレチャコフは著書「ジョン・ハートフィールド」(1936)のなかで、フォトモンタージュが技術的に特殊な技法としてではなく、独自の方法で意味を発するものであると指摘している。

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フォトモンタージュの原始はラウル・ハウスマン&ハンナ・ヘーヒ vs ジョージ・グロス&ジョン・ハートフィールドの主張で対立していた。

先に触れたように、「フォトモンタージュ」という名前の由来は、『グロスとハートフィールドが(ドイツ語の)montiertまたはmontieren(組み立てる)という言葉を採用して「mont」と縮めたことによる。』

その後、1931年ベルリンで催された「フォトモンタージュ展」が最初の大規模な展示として挙げられる。企画は、ハウスマンである。

同展の講演において、ハウスマンは以下のように述べている。

フォトモンタージュのアイデアはその内容が革命的であり、その形式が、写真と印刷テクストの応用として破壊的であった。写真と印刷テクストはともに一枚の動きのない映画(フィルム)に変貌した。(中略)彼ら(ダダイスト)は写真を、創造するための材料として利用した最初の人々である。(中略)ダダイストたちが気付いていたのは、自分たちの方法は同時代人があえて利用しなかったプロバカンダとしての力を所有していたことである。

1920年、第一回ダダ見本市がベルリンで催された。展覧会で提示されたテーマは「芸術は死んだ!タトリンの機械芸術万歳!」。ハウスマンとヘーヒが展示したフォトモンタージュのモチーフには、繰り返し「機械」が用いられていた。

タトリンはロシア構成主義の基礎を築いたウラジミール・タトリン(1885-1953)その人である。ハウスマンらが機械を用いていたことについて、のちに『いいかげんに集めたイメージでしかなく、あらかじめ「機械芸術」を確信していたわけでもない』と言明している(1967年)。

「いいかげんに」とハウスマンは述べてはいるものの、少なからず第一次世界大戦の記憶と非芸術的なものとしての意識が潜在的にはあったように思われる。

ダダのコラージュとフォトモンタージュは、キュビズムのコラージュと大きな差異があり、「テクストの断片がキュビズムよりも攻撃なやり方で使われており、言葉とイメージの間の避けられない区別を否定しようとする混合がしばしば行われている」とみている。

フォトモンタージュがプロバカンダとして積極的に利用されたのは、マルクス主義の弁証法の表現に非常に適していた。なかでも、それをもっとも上手く制作したのは、ハートフィールドであった。

フォトモンタージュについて、ジョン・バージャーはエッセイ『フォトモンタージュの政治的利用』(著書「評論選集ー物の外観」(1972)内)で以下のように述べている。

フォトモンタージュの特に有利な点は、切り抜かれたすべてのものが、なじみの写真的外見を保っている事実にある。私たちはやはりまず「事物」を見つめているのであって、そのあとでやっと表徴を見るのだ。

この作用によって、フォトモンタージュは象徴的な作品であったとしても、より強力な効果を生み出している。

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1919-20年頃から、ソビエト連邦でフォトモンタージュ作品が独自の発展を遂げていく。時代はロシア革命によってロシア帝国が没落し、ソビエト連邦が誕生した年に当たる。キーパーソンは、グスタフ・クルツィス。

『クルツィスの「煽動的=政治的」フォトモンタージュは本質的に空想的かつユートピア的であり、はじめはソヴィエト国家の目標を、あとではその成果を納得させようと意図したものである。』と述べているように、ダダイストたちのフォトモンタージュとはその利用が大きく異なる。ダダイストたちは政治的において、「主要な攻撃相手は新しいワイマール共和国とドイツ軍国主義であった」というように、政治的な関わり方が構成主義とは全くの逆である。

クルツィスはこの頃(1920-22年頃)に無対象芸術は終わったと述べているが、そのエネルギーの多くがフォトモンタージュのなかに吸収されていった。

無対象芸術、すなわちマレーヴィチのシュプレマティズムについては別途、以下に記載している。

そしてクルツィスと同時代にアレクサンドル・ロトチェンコがいる。ロトチェンコの作品はクルツィスと比べて、「もっと日常的なものに根ざしており、皮肉っぽいか、あるいはユーモラスと言えるだろう」とユベルトゥス・ガスネルは述べている。

その後、シチュカによってポーランドの構成主義者に伝わり、彼らの雑誌「ブローグ」を中心にフォトモンタージュが展開されていく。

なお、ソ連におけるフォトモンタージュの使用は1930年代中にも用いられており、なかでもリシツキーの貢献-『建設下のソ連』誌(1930-41年創刊)-が大きい。

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パウル・シトロエン≪メトロポリス≫(1923)や、カジミエルツ・ポドサデツキ≪近代都市-生のるつぼ≫(1928)にみられるように、近代都市の急速な発展もまた、フォトモンタージュにとっては格好のオブジェであった。

シトロエンは1919年に初の都市モンタージュを作成しており、1922-25年ワイマール・バウハウスの在学中に≪メトロポリス≫を制作した。

マックス・エルンストはそれまでのフォトモンタージュとは異なり、「組み合わせ写真のイメージが持つイメージの、人を当惑させる力と、物体・身体・風景が驚異的に変貌する可能性とを、体型的に探究した最初の芸術家の一人だった」という。(前述した≪運動を通した健康≫(1920頃)など)

エルンストによって形態の新領域を切り開き、その後のダダ絵画に影響を与えることになった。アラゴンが指摘しているように、エルンストのコラージュは自由な想像力が働いている点でキュビストと大きく異なっていたことを指摘している(1920年)。

なお、エルンストは自身の作品についてはコラージュやフォトモンタージュという呼称を使用せず、「ファタガタ(Fatagata)」と呼んでいた。意味は「ガスメーター付き絵画製造」であり、ベルリン・ダダのフォトモンタージュとは一線を画していた。

エルンストはパリのダダイスト、とりわけポール・エリュアールやアンドレ・ブリトンと連絡を取り続けていた。のちに派生するシュルレアリスムによるコラージュ作品の先駆けでもあったのだ。

1929年、エルンストはコラージュの読物『百頭女』を出版している。また、版画によるコラージュ作品は『シュルレアリスム革命』の最終号にも掲載されている。その後のマン・レイやマグリットのフォトグラムやレイヨグラムへと繋がっていく。

シュルレアリスムについては、先日記した「シュルレアリスムとは何か」を参照。

コラージュとモンタージュ写真は、パオロッツィやリチャード・ハミルトンといった戦後のポップ・アーティストたちの必須条件となっていく。さらに今日においては、広告の分野でフォトモンタージュの脈絡が受け継がれている。

確かに、映画の宣伝用ポスターはさまざまな人物や状況、オブジェなどを巧みに画面上で構成し、ひとつのイメージを作り出している。

ラースロー・モホリ=ナジもまたフォトモンタージュ的手法から展開されたフォトグラムを行っている。ダダイストやハートフィールドが開発したフォトモンタージュは「対立物の表現、弁証法」であったのに対し、ナジは「写真的イメージは構成の無対象的明晰さにただ付け加えられたものではなく、本質的なもの」が表象している。

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ダダは第一次世界大戦下における、破壊と否定によって展開されていき、フォトモンタージュがプロバカンダの道具として利用されていた、という認識でいた。

しかし、実際にはフォトモンタージュ作品を制作する明確な意図があり、結果的にプロバカンダに利用され、そしてそのことをダダイストたちは理解していた、という点が挙げられる。

また、フォトモンタージュの制作に目を向けると、写真を恣意的に組み合わせ、さらにその多くがテクストを加えることによって作品そのものに明確な意図や意味を与えている。その内容が正しいか正しくないかは問題ではなく、写真のメディア特性を最大限に利用していることで、鑑賞者に伝えるという意識が強い。

なかでも、ジョン・バージャーの見解は端的であり、フォトモンタージュにおいて「写真は写真として存在している」点が挙げられる。

バージャーの別書『見るということ』を読むと、認識的な作用がみてとれる。

ひとつの写真はそれぞれ意味があるものであるのとともに、複数の写真を組み合わせることで、意味するものをより補強する形で表現されている。

本書では触れられていないが、フォトモンタージュ作品の多くが「単作品」であることにも着目したい。そして展覧会だけではなく、ポスターや雑誌などメディアでの発表にも注視したい。

つまり、一枚完結型であることは、その後にみられる「ファウンドフォト」の表現方法とは大きく異なっていることが伺いしれる。すなわち、フォトモンタージュはある種「絵画的」な表現方法に属するのではないかと考えられる。

しかし、それとは対照的に、訳者の後書きにも記載されているように、一枚の画像の中に複数の写真が混雑する「組写真」としての機能も有している。

ダダ、構成主義、シュルレアリスム、バウハウス、ポップ・アート、そして現代へ。現代でもその手法が継承されていることは非常に興味深い。デジタルが主流となった現代において、画像編集や合成処理といった手法的な部分は非常に容易である。とりわけ、映画のポスターといった、我々が日常的に目にする機会が多いものが、伝統的かつ現代的なフォトモンタージュの表現であるといえる。


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