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【書籍】感性的なもののパルタージュ

アルジェリア出身の哲学者ジャック・ランシエールによる本書。副題は「美学と政治」。

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ランシエールは著書『不和』において、「政治は感性的なものの分割=共有」と呼称している。この「分割=共有」が「パルタージュ」を意味する。

感性的なものの分割=共有は、共有された共同のものと独占的な分け前を同時に定めるのである。

また、政治の根幹には「美学=感性論(エステティック)」が存在するという。この「美学=感性論」から論述することによって「美的実践」に関する問いに応えることが出来るとランシエールは指摘する。

芸術的実践とは、行為=制作の諸様式の全般的な配置のうちに、そしてそれらの様式と存在の諸様式や可視性の諸様式との関係性に介入する「行為=制作の様式」である。

意気揚々と読み始めてみたものの、哲学用語を理解しておらず、一向に進まないので、まずは用語を洗い出し。

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・エクリチュール:書くこと・書かれたもの
 ↑↓
・パロール:話し言葉

・ミメーシス:模倣
 ↑↓
・ポイエーシス:創造(プラトン)

・シュミラークル:見せかけ、幻影
・アンテレ:利点、意義

・ア・プリオリ:先天的、先験的→原因からの認識
 ↑↓
・ア・ポステリオリ:後天的→結果からの認識
(カント)

・エートス:住みなれた故郷や場所(アリストテレス)

説得の三原則(アリストテレス)
・ロゴス:論理、理屈
・パトス:情熱、感情
・エトス:信頼、人柄

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ランシエールは「芸術」と呼ばれるものには三つの主要な同定の体制があると指摘する。

1. イメージの起源に関する問い
2. その結果として生じるイメージの真の内容に関する問い
3. その用途(=イメージの使い道やその効果)に関する問い

現代アートとは「問い」であるといわれるが、単なる問題提起を指す「問い」だけではなく、こうした三つの「問い」が同時に表象している。

ミメーシスは諸芸術を類似へと服従させる法ではない。(中略)ミメーシスは、芸術のひとつの手法なのではなく、諸芸術の可視性のひとつの体制である。

これは、マレーヴィチの著書「無対象の世界」で示したプラトン→アリストテレスへとつながる美学=模倣に関する反論でもある。

モダニズム絵画はそれまでの具象絵画から非具象、すなわち抽象絵画へと移行したこと=ミメーシスと敵対的な道を辿った、とみられていた。

このことについてランシエールは、「出発点が間違い」であると指摘したうえで、「ミメーシスの外への跳躍は、具象の拒否では全くない」と断言している。

諸芸術の美的=感性論的体制は、芸術における断絶の決定とともに始まったのではない。それは、芸術がなすものあるいは芸術をなすものを再解釈するという決定とともに始まったのである。

ランシエールはモダニズムについて『「芸術に固有のもの」を、歴史的な進展と単純な目的論にそれを引っ掛けることで基礎づけようとする絶望的な試みであった』とみている。

その一方で「ポストモダニズム」は『モダニズムの理論的建造物を崩壊させていたところのものすべてを明るみに出した』という。

ランシエールは「フィクション」という観念に準拠しており、『政治と芸術は、学問と同様に、「フィクション」を構築する。フィクションとはすなわち、記号とイメージを物質的に配置し直すことであり、見られるものと言われるもの、なされることとなされえることの間の関係である』と述べている。

これは、「ユートピア」という観念をこうした作用をうまく説明できるとは確信がもてないとしたうえで、『ユートピアとは、可視的なもの、思考可能なもの、そして可能事の領域を再構成するのに適した、言葉とイメージのモンタージュである』とともに、『芸術と政治の「フィクション」は、ユートピアであるというよりはヘテロトピアなのである』と結論付けている。

Wikiからの参照ではあるが、ヘテロトピアとは、ミシェル・フーコーによって提唱されたコンセプトであり、文化的、制度的、談話的な空間であり、「ほかのもの」であるという。ヘテロトピアは世界の中に内包された世界で、外界にあるものを反映し、混乱を招くものである、という。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Heterotopia_(space)

ユートピアは日本語では「桃源郷」と訳されるように、理想的な世界観を指す。ランシエールは芸術と政治のフィクションについて、こうした理想的な関係性を示すものではなく、実世界に内在しつつ、外部からの情報を写しだす「別世界」であると指摘していると私は解釈した。

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わずか62ページの翻訳ではあったが、正直なところ本質的によくわからない。。さて、、引き続き、梶田氏がランシエールに行ったインタビュー、および梶田氏による解説を読み進めてみる。

ランシエールが「政治」を取り上げたのは、プラトンの『国家』とアリストテレスの『政治学』から出発して展開したことによる。そして、時代に即した政治の再定義を試みたのだ。

問題は「共同体の全体として構成される社会の一部分のあらゆる行動は、必ずや、ある分割=共有の線上に身を置くことになる」という点に帰着すると述べている。

こうした背景にはマルクス主義と社会主義の対立がその根底として存在している。

政治と芸術との関係性は本質的である。それは、政治は常にある種の美学=感性論を伴っている一方で、芸術は感性的なものの分割=共有(パルタージュ)に対して、何らかの政治性を常に纏っているからである、と梶田氏は解釈している。

近年の「政治の美学」においては、芸術におけるモダニズム/ポストモダニズムの関係性と同様に「反転」した状態にあることから、「アンチ・モダニズム」の言説が生まれてきたという。

少し長いが、以下を引用する。

歴史の終焉が唱えられたのと同じように、芸術の終焉、あるいは文字の終焉が宣言された。こうして、あらゆる解放への希求は、現実に盲目なユートピア的な幻想であり、美的「フィクション」であるとされ、その盲目さは、必ずや暴力の氾濫と化すであろうと言われるようになった。政治はその固有の現実へと立ち戻るべきであり、そのためには、その悪しき「美学化」からそれを切り離さなければならない。
それは、政治からその本質的な美的=感性論的性格を取り去ることである。だが、実のところ、それはただひとつの感性的なものの分割=共有を「現実」として認めさせることにほかならない。

これは、モダニズム絵画から最終的に抽象表現主義へと行き着いた結果、絵画の終焉を決定付けたことによるものである。

最後に引用した部分が本書の言わんとしていた内容であると思うが、いささか消化不良は否めない...。書いた内容を改めて読んでみて、ようやくぼんやりとみえてきた感じである。。

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